時事逓信屋 PAGE6
① 一人称の表現 ② スペースデブリ ③ 夏休み ④ 物流と免許 ⑤ 無限増殖細胞 ⑥ 自転車の免許 ⑦ 下水道料金 ⑧ 母として ⑨ 収入印紙 ⑩ 貧困
2022年5月11日投稿
日本の男子は自身の言い方に対して様々な言葉を使う。私とか自分とか僕など、地方の言葉を入れると数多くある。そこで、コトバンクで色々と調べてみた。
僕→親しみのある、くだけた言い方として使われる
自分→本人と同等の者に対する親しみを表す一人称として用いられる
俺→男女の別なく用いたが、現代では、男子が同輩または目下に対して用いる
私→目上の人に対する時や、やや改まった場合に用いる。男女ともに使う
わし→近世では女性が親しい相手に対して用いたが、現代では男性が、同輩以下の相手に対して用いる。
おいら→一人称の人代名詞。おれ、おら、など男性が用いる。
おら→一人称の人代名詞。おれ。おいら。近世では、江戸町人の女性も用いた。
上記以外にも一人称の人代名詞で色々な言い方があり、日本語の自分に対する表現はとても複雑だ。そこで、現代に於いて男子が代表的に使う言葉は僕、私、自分の三つが上げられる。其々三つを要約すると、僕は、親しみを表すフランクな言葉、私は、礼儀上の改まった言葉、そして自分は、相手に対し親しみを表す言葉と言う事になる。
もう少し詳しく説明すると、私が低学年の頃、よく、”ぼくんちきてよ”と相手に言っていた記憶があるが、その僕は対等またはそれ以下の人に対して用いていた。その頃の親は、僕とは言っていない記憶がある。しかし今の時代では目上でも同輩でも、年下でも多方面で僕の言葉は耳にする。次に”自分、俺”は軍隊や任侠映画などで表現しているが、親しみや敬意、尊厳だろうか、一般的に耳にしないが、硬派的、規律的な人が表現する事もある。最後に”私”は会社の上司や改まった時に使うが、女子は普通に使用している場合が多い。つまり、自分に対する一人称は、状況、立場、自尊心、そして無意識に言っているのが解る。それらを考えると、地方での自身に対する方言は別として、日本の男性は状況に応じて、自身の言葉を使い分ける人もいれば、そうでない人がいる事だ。また、それらを含めた一人称の言葉の種類が多いのは、恐らく日本だけかも知れない。外国ではアジア圏を除き、1・2種類しか一人称が無いのを比べると、日本では場合と状況次第で一人称を使い分けが多い気がする。
例えば、会社の上司が”君はどう思うかね?”と言われた場合、”僕とか俺はこう思います”とは言わない。そう、日本では一人称に於ける言葉一つ選び間違いで、人格的信用が落ち兼ねない。それと二人称でも表現が多岐にわたり、君、おまえ、あなた、貴様等状況に応じて使い分けている。それら日本の一人称、または二人称を外国と比較した場合、英語では”I.YOU”の単語と顔の表情・アクセントだけで終わるが、その反面、日本語では一人称の種別を屈指して、言葉と表情で表現しているために、顔の表情は笑っても、一人称の使い分け次第で複雑な表現になるのだ。
本題の主旨は、現代に於いて、男性の”僕”の表現は、若年層から中高年まで比較的に日常的に使用されている事。また、公共放送中の出演者(知識、文化、芸能人)等も、相手に対して普通に僕と話しているが、その状況に応じて言葉(一人称)を使い分けない多少の違和感がある事です。
ちなみに著者は、時と場合関係なく一律に私と言っています。
2022年6月13日投稿
スペースデブリとは宇宙ゴミであり、宇宙開発により地上から打ち上げられたロケットや人工衛星等の部品、破片などで、地表から300-450kmの低軌道で秒速7~8千キロメートル、静止軌道で秒速3千キロメートルで地球の周りを高速で周回している。そのデブリの直径が10cmほどあれば、仮に宇宙船に衝突した場合は完全に破壊されてしまうという。欧州宇宙機関(ESA)の予測だと1mm以上のデブリは1億5千万個あるとされる。つまり、地球の上空の青い空に所狭しと大量のゴミが浮いているのだ。
デブリが大気圏に突入して燃え尽きらなく地表へ落下した例もある。また、老朽化した機能不全の衛星等の衝突で、さらに破片(デブリ)が飛び散り、宇宙にも地表にも危険を及ぼす恐れが生じるのだ。また、過去に意図的に役目を終えた衛星を自国のミサイル等で破壊してデブリを更に増やした。それらの危惧を国連会議で進めているが、打ち上げ国の見解は賛否両論である。宇宙デブリは地表に生きる人類が、その辺にゴミをばら撒いている事と同じで、人類として宇宙のゴミは対岸の火事とは思わず、対策を推進して考えていかなければならない。また、それらのデブリを回収するなど試みているようだが、完全に処理できる方法は現在ではない。しかし、現在ではそれを考慮してロケット打ち上げの際に、破片が飛散されないよう設計変更されているのも事実だ。さらに、デブリ対策としてデブリを駆除する実験衛星が捕獲に成功しているようで、このプロジェクトは日本も参加している。
そのデブリの多くは、過去の大国が衛星破壊実験で大量のデブリを発生させた事で、ある意味それは負の遺産であった。そしてそのデブリが、知らぬうちに人類社会の発展と共に人工的な環境破壊が地球の空の上へ上へと広がって行った。その結果、その大量の危険なデブリが他の衛星に衝突、また、燃え尽きないデブリが空から降り注いで来る。
ゴミを出すのは人間で、それを回収するのも人間の役目である。デブリを発生するのはいとも簡単だが、その後始末は限りのない結果を招くのだ。直近のC02の問題も重要だが、人工遺産物の宇宙デブリも同様に地球環境問題として考えて行かなければならないと思う。
2022年6月28日投稿
夏休みとは、ウィキペディアによると、日本の教育機関の場合、校舎などに冷房設備がない場合が多く、太平洋高気圧支配下での授業が暑熱により困難なので、その間を休業とするためとされ、その期間に期待される教育効果の主たるものは、普段学校では体験することの出来ない自営業者や農家などの家庭における体験学習や、、家業手伝い、教職員等の夏休みを利用した研修や採用試験、休業、また藪入りの習慣の影響とされている。
要するに夏は暑く、授業に支障をきたすため、休みの間に普段できない社会の体験学習を行う事、社会人に於いては、お盆休みとして帰省期間を設け、またその期間に家族なので行楽等を行っている事である。ここで着目したいのは、夏は熱いので授業に支障を来すため、休むということ。そこで、全国の教育機関で空調設備の冷房化率を調べてみた。
文部科学省が2020年9月30日に公表した調査結果によると、2020年(令和2年)9月時点における公立の小、中、高、特別支援、幼稚園の冷房設備設置率は93.0%である。現在では恐らくそれ以上だと考えられる。つまり、快適な空調管理の下での授業なので、熱さの不快指数は上がらない。さらに、細長い日本列島は寒暖の差がある為、夏休みや冬休みの期間は自治体によって違いがあるのもその理由だが、もはや、設置率100%近い空調の環境下では、それらの理由は無理が生じる。つまり、何が言いたいかは一目瞭然で、”夏休み”という意味の大義名分の前提が崩れている事である。
私は夏休みは必要ではないとは言わない。その時代に沿った”夏休み”という理由を明確に示すと言う事です。教室内が涼しければ快適に教授できるわけで、何も無理して休ませる必要はない訳だし、また社会人に於いては、熱いから休むわけではない。教育機関の休みに合わせ、お盆と言う名目で、家族で帰省と行楽に満喫している。また、冬休みに於いても同様で、寒ければ暖房をつければ良い訳で、”お正月休み”とした方が無理が無い。そして、教職員に於いては、上記の通り、休みを利用して多様な仕事が有るが、それは休みの期間に強いられているのか、その期間しかないのかは、そもそも構造改革に問題がある。
次に休みの期間も東と西で前後の差はあるが、七月下旬から八月下旬、または末になっている。これも暑さ対策による期間の設定であり、その期間の範囲だけ熱い訳ではない。また、地球温暖化や異常気象現象による猛暑が見られ、現実にこの記事を書いた六月下旬で既に梅雨が明け、連日三十五度以上の猛暑がこの先続くとされている。それはまさしく、夏休みの主旨である大義名分で言うなら六月でも”夏休み”である。
私は、夏休みという主旨の既存の概念に捉えず、現代に見合った考えを理解しなければならないと思い、勝手に呟いてみた。
2022年9月6日投稿
1970年代頃は16歳になってバイクの免許を取得し、そして18歳で普通自動車免許を多くの人達が取得していた時代。その結果、免許を取得していない人を探すのが難しいほど、その時代は免許取得人口が多く、それは免許を取得することが一つのステータスであったと言っても過言ではない。さらにマイカーを持ち、街中や観光などドライブを楽しむ事が、若者の娯楽であった。それと並行して自動車メーカーもスポーティーな車を意識して、若者の需要に応える為に車の性能やデザインと加速、スピード感を重視し、その結果、メーカー各社は馬力とスポーツ仕様にこだわり、生産を競った。
1970年代、80年代の免許取得後を考えると、普通免許を取得してはマイカーをアレンジしたり、バイクの免許に至っては原付と二輪免許しかなく二輪免許でいきなり750CCバイクでノーヘルで運転できた時代であった。スピードが出ると目から涙が出たのが記憶にある。しかし運転方法に度が過ぎたかは、定かではないが、事故死者数が増え、それに伴い徐々に免許条件が厳しくなってきたのは事実であった。
そして現在を見てみると、バイク及び普通免許新規取得者人数は、過去の最高取得者年と比較すると700万人近く減少している。その原因は多様に考えられ、国内経済状況、就職率、個人所得、交通環境の利便性、取得費用等々考えられる。その結果、自動車メーカーも若い人をそれ程意識することなく地球環境にやさしい経済性、エコを主流に生産している。若い人が言う。車は地方では生活の足として必要だが、その反面、大都会に於いては公共交通が充実しており、免許取得費用や車の購入費、維持費(整備・車検・車庫代等)、税金等の必要経費を払って迄も必要ないと。例え免許を取得したとしても必要ならばレンタカーを借りると。また、ある人は結論として免許が無くても不便を感じないとも言う。それは時代の流れなのか?しかし、それらの原因と結果は過去と現在の新規免許取得人口減の理由をすべてを一緒くたに考えてはいけない。
そこで今回は免許取得人口が減少する中で、免許イコール運輸業界を考えてみたい。
免許取得人口が減り続けると、問題となって行くのは物流関係であろう。その昔は18歳で普通免許を取得したら、車の総重量8トン未満まで運転ができた。つまり高校を卒業して大きいトラックを運転できる運送関係に就職ができたが、現在では普通免許が細分化されて、オートマチック(AT)や準中型、中型となり、過去の普通免許相当の条件を運転できるまで年月と費用が発生するようになった。従って運輸関係に就職したくても条件が満たされなくて諦める人もおられる。そもそも何故免許条件が増えたかは、補足すると改正前は新規免許取得後(二輪・普通免許)、慣れない大型の車を運転して高い事故率のリスクを避ける為に、取得期間や区分化を設定して事故防止安全策として考えられたものであった。しかしそれが結果的に若い人の運輸業界の就職率を妨げたのも一理考えられる。
いずれにしても、運輸業界にしてはドライバーの高齢化が進み、人手不足に陥るのは近々の問題である。それに対し、近年、車の無人化運転の研究が試行錯誤で勧められているが、他国に比べ日本は遅れを取っている。それは、法律や規制、保安、責任、免許の所在などの議論が様々出ていて、完全実用化にはまだ先のようだ。しかし、だからと言って指をくわえて見てはいられないが、限られた運賃の中で、車両の維持、人件費、整備費、保険等の費用が発生する。また、時間外労働や安全確保に於ける付帯費用及び固定費の急騰など需要と供給のバランスが崩れつつある中での人手不足の問題が直面している。倉庫のロボット作業に依る完全無人化、輸送における完全無人化、ドローン配送化、化石燃料の削減に依る安価の新エネルギー化等々、それらを考える上で、運輸業界も多岐に亘り模索しているが、合理化するのも費用の負担やコスト面など課題が多い。また、労働時間の是正や安全指針の強化を図れば図るほど費用対効果が望めない。政府に於いても設備投資の補助金の拡充や免許取得条件の緩和、取得費用の補助、労働条件緩和に伴う補助策等を近々に議論しなければ恐らく日本の物流の未来はないだろう。
2022年9月18日投稿
生物によって寿命の長さは違うが、人も動物も誕生したら、いつかは老いて亡くなる。例えば、日本人の平均寿命は80~90才位だ。どんなに長く生きても130年ぐらいが限度であろう。人の身体の構造は細胞の集合体で出来ていて、その細胞は生涯に亘って死んでは新しく生まれ、それを繰り返して生命が維持されている。実は人は何故死ぬのかははっきり解っていない。恐らく細胞の死と誕生を繰り返して最後は力が尽きるのかも知れない。
人は必ず死を迎えるけれど寿命は少しづつ延びている。日本では65歳以上の人口比率は約29%で世界ランク1位の高齢者先進国だ。その昔の日本は、男女の平均寿命は65歳前後であったが、近年の食物摂取の多様化と栄養のバランス、そして、医療技術の躍進で人の平均寿命が大幅に延びてきた。しかし寿命が延びてもいつかは必ず死を迎える。その死を阻止する為に、細胞の代謝を無限に繰り返す事ができれば、人は老化も死も無くなるかも知れない。具体的にその老化を阻止するには、例えば、IPS細胞技術を屈指して人の体内に新細胞(がん細胞死滅含む)を入れて培養させ、半永久的に細胞代謝を繰り返して、寿命のない老化しない人間が誕生する事ができたならばどうなるのだろう。そのような細胞が開発実用化されたら現在の社会と比較してどの様な変化が生じるのか考えてみた。
もし、人が寿命のない老化しない社会であれば、高い労働力の生産年齢で維持ができて、一定数の人口(計画出生)で経済が成り立つ。そして生産人口の安定維持によって経済成長(GNPとGDP増加)の増加、国家予算の福利厚生費の大幅削減などが見込まれる。その定義として、20才を迎えたら、細胞増殖ワクチン接種の義務化(無料)により、その効果は接種時点から主に脳と筋力、そして臓器類が半永久的に維持される。その結果、人の安定した労働力で高度経済成長が見込まれ、更に医療に於いては、内臓系手術はなくなり外科のみとなる。また、オプションとして保険適用外(有料)の永久的細胞増殖ワクチン(臓器、脳、眼球、筋肉、血液、骨等の効果)の接種で、事故以外の生命維持は永遠と生き続ける事ができるというものだ。
これらを実施するに当たり、細胞増殖ワクチン接種(生涯に於いて1回)のタイミングは、20才以下の成長過程を除き満20才(国内人口約120万人)を接種対象にして毎年それを繰り返し、出生率調整で最終人口調整する。これに伴い、初期接種開始日時点の満21才以降の人は自然寿命で終えてもらい、最終的に日本国内の人口は8400万人(全員20才相当)にする。少し冷静にその社会を見ると、20才から齢を取らないため、お爺ちゃん・お祖母ちゃん、孫、ひ孫等々、全て20才位に見えて誰が誰だか解らなくなる。墓も要らず、福利厚生施設や関連企業もなく、介護もなく、寺は檀家の減少で無人寺に、年金や医療保険、死亡保険(事故を除く)も一切無くなる。また、全人口定員制なので経済状況の補充分や移民、避難民の調整と自然死、事故、自殺者の減による補填のみなので、子供を持ちたい夫婦は、妊娠許可制または制限出産となり、それらは特殊な社会の構造になるかもしれない。また、21才以降の人達は接種できない為に何れ必ず亡くなる訳で、意義を申し立てる人達もいる。そのような人間の生命をコントロールするに当たり、多方面にメリット、デメリットが垣間見える。
然し乍ら、将来生命維持の進化によって細胞の老化を防ぐ事ができたなら、少子高齢化問題などの言葉は存在しない。ただ、生産人口調整に於ける経済の需要と供給のバランスを鑑みないと、先進医療技術の負の遺産になる可能性もあり、究極の論点は慎重に考えなければならない。人間の生命を調整するのは基本的医療倫理に反するかも知れないが、人はごく自然に、生まれた限りは出来る事なら年を取らずに生きて行きたいと思っているのは私だけだろうか。
そう思う未来の妄想でした。
2022年10月16日投稿
道路交通法(以下、道交法)によると車両等は軽車両も含まれ自転車も軽車両に含まれる。その道交法第二条(定義)の十一の二では、自転車 ペダル又はハンド・クランクを用い、かつ、人の力により運転する二輪以上の車(レールにより運転する車を除く。)であつて、身体障害者用の車椅子及び歩行補助車等以外のもの(人の力を補うため原動機を用いるものであつて、内閣府令で定める基準に該当するものを含む。)をいう。と定義されている。また、自転車を乗るには運転免許が無い為、自転車の運転による自転車運転者講習制度の自転車運転者講習の規定が施行されている。また、自転車で危険運転行為を繰り返した14歳以上の違反者は都道府県公安員会が講習の受講を命じられ、従わない場合は罰金が科せられる場合がある。
この様に、自転車を乗るには上記のような法律や講習など定義されているが、問題は自転車を乗るに当たり、交通ルールと道交法の知識が必要になるのだが、自転車を運転する年齢や免許制度はない。従って、14歳以下、主に10歳以下は保護者の指導、教育のもとで運転しなければならない。更に道交法違反者は、青切符(交通反則告知書)または赤切符(告知票・免許証保管証)が交付されるが、自転車は免許保持者でも青切符はなく指導・注意勧告書で、悪質な場合は赤切符(刑事罰)が交付され、まれに免許所持者に行政・刑事罰を科する事もあり得る。
そこで、自転車を運転するに当たり、ある程度交通法規を理解して運転しなければならないが、先に述べた10歳以下の子供の道交法の責任は、重大案件になると保護者の責任となり得る。その他は自己責任で運転する訳だが、自転車を運転する全員が交通法規を理解しているとは限らない。免許証を取得した人は交通法規や標識等を習い道交法に従って運転し、違反行為は敢えてルールを無視して違反する場合である。しかし自転車を運転し、尚且つ免許証を取得していない人が一般常識として信号表示の赤は止まれ、青は進め、人は右・車両は左側通行と理解している程度で、まれに、歩行者と同じ自転車も右側通行と勘違いする人もおられる。この為、自動車運転者に取っては対向自転車は逆走と理解するが、当然相手は何も思ってはいない。それを防止する為の都道府県の安全運転自転車講習を施行しているが自転車運転者全員が講習を受けている訳ではない。
また本来なら道交法に定義している車両(自転車)も免許制にすれば、ある程度交通事故案件が減少されるが、これには子供から大人まで幅広く該当するため、無理が生じる。それを可能にする最低限の方法は10才以下の保護者指導義務、以上は都道府県単位の講習義務化、これらを怠った場合は過料を科すなど考えられる。
そもそも道交法の法規を勉強していない自転車運転者に罰則(※注意1)を科すのも矛盾が生じる。それらを払拭するため警察庁も文科省も周知徹底指導を都道府県に対して行っているが、最終的に自転車運転者は免許制ではない以上、本人の最低限の交通知識の徹底とモラルに頼るしかないのが現状と考えた場合、この問題は永遠に終わらない。
※注意1 数回に及ぶ危険行為を行い注意勧告書を渡されたにも拘わらず繰り返す者
2022年11月9日投稿
水道を利用するなら上水道料金と下水道料金が請求されます。上水道料金は全国の自治体の市町村によって基本料金を含む使用料はそれぞれ料金に違いがあり、また配管の口径が大きくなるにつれ料金も比例して高くなる。また、井戸水(地下水)を使用している場合は、上水道は無料ですが下水道料金は発生し、そして集合住宅の場合は各戸に使用メーターが無い場合、全体使用料を総世帯数で割って管理組合が決める場合がある。
そこで、今回は下水道料金について考えたいと思います。下水道料金は上水道で使用した分で算出されています。つまり水を使った分だけ払って下さい。と言うもので当然その汚水は下水に流れる訳ですが、ここで気になる事がある。それは水道で使った水は全て下水として流れるのだろうか?広大な水田は川の水や湧き水を使用し、水は地下に浸食し何れ地下水となる。つまり下水道代はかからない。しかしそれ以外の施設等で上水道を使用したら当然下水に流れる。
食器を洗ったら下水に、お風呂も、トイレも、洗濯も、プールも下水に流れる。そこで、ある個人の家の水道水の利用方法として、お風呂は近くの銭湯、トイレは近くの公園で、自炊はせず出来合いの物、洗濯は近くのコインランドリー、そしてそれら以外では毎日水道を使うのは屋上にある大量の鉢植え観葉植物や植木等だ。その水の使用料は他の一般家庭より多く使う。なので、その分下水道使用料が発生する訳だが、使用した水はすべて下水に流れないのだ。下水を使用していないのに下水道料金がかかる。ここの所が疑問を生じる。
水道局にしてみれば各家庭の利用用途を確認して下水道料金の減免処置などしていられないので、上水を使った分だけ請求すればめんどくさくない訳だが、お金を払うのは利用者である限り、税を使わない上下水道料金で賄う運営は、丁寧な説明が求められるのではないのかと思う。
ちなみに、全国の市町村別水道料金が高いのは13mm口径・20㎥使用で北海道夕張市、逆に兵庫県赤穂市の料金は夕張市に比べ約6000円の差で低い。これは水源や施設、人口等の諸般の理由等によるもの。
山奥の秘境で仙人のような生活をしていれば、電気、ガス、水道はほぼいらない。しかし都会ではそれらのインフラの整備がなければ生きていけないし、生活もできない。
最低限のインフラは最低限の生きる保証が求められる。
2022年11月13日投稿
母は子供を産んでから一生懸命子を育てる。愛情を一杯注ぎ、大切に可愛がり育てていくのだ。その子供が大きく成長しても母は母で愛情は変わらない。それが母でお母さんである。
その昔の母は、恋愛でもお見合いでも一度連れ添った夫を愛し、産んだ子供は何人であろうと子供に愛情を注ぐ。それは今の母も変わらない。私から見る母は、昭和の時代の母を垣間見ると特別な事情が無い限り、大人になっても母の存在感が十分あった。権威も威嚇も叱責もなく、ただの存在感だけでも母である。それが子から見る母であった。その時代の両親は片親という存在は、ほとんど見受けられない。むしろ片親という社会認識すらほぼ無いし、逆を考えれば片親を偏見、蔑視的な見方は、その当時の社会には珍しく、一部に見受けられた気がする。それだけに母の存在は子供にとって絶対的な味方であり母の尊厳であった。
それから、その様な時代が当たり前のように続いたが、現代社会に於いて過去の時代を比較しながら垣間見て考えてみたい。そこで、ここまで書くと、昔は母の存在感が当たり前で、現在はそうではないと思われがちですが、実は著者の主旨は少し違います。母の存在、尊厳は昔と変わらない。いや、変わるはずがない。その母が、どんな事情があるにせよ、子を持つ母が意図も簡単に子から離れる事である。母は我が子を産んだ苦しみと、嬉しさと、愛情をそそいで居るからこそ我が子を一生忘れない。そんな我が子を見捨てる事はないにしろ、悲しい現実はある。事実、親権は母が権利を得るのが多数ではあるが、それすら放棄する母親が居る現実を。たしかに、その母の多様な事情があるのも鑑みないといけないかもしれないが、問題はその当事者の子供である。子供にとって母だけの責任とか、父親にも原因があるとかはどうでもいい事で、母と父が居る事だけで子供自身の心の安堵感の環境が定着する。
子は自分を産んでくれた母に対して、どんな形にしろ心の中で母を憎む子はいない。そう、もし母は去って行っても子の心の中は母は去って行かない。それは母も子も同じであると思う。その昔、離婚という言葉は滅多に聞かない言葉であった。しかし現在では当たり前のように聞く。その当たり前が常態化しているのが危惧されるのだ。男女の存在感、意識感、共有感、生活感等々同じ空間に住む異性同士が別の生き方に個々が導いた場合、その結果を招く。それは個々に対しては別に否定はしないが、その女性がもし我が子を持っていた場合、決してその子供は母を忘れないし、忘れられない。だから、お腹を痛めた母は一人の人間ではなく、貴方の血が通うもう一人の人がいる事を考える場合、離婚は慎重にならなければならない。貴方の血が別の人に通うとすれば、貴方だけの問題では解決できない現実が、そこにある事を思わなければならない。
最後にADECCサイトに於いて母親の五つの役割として、子育ては思い通りにいかないものです。母親も一人の人間。時には、途中で投げ出したり、何もかもやめてしまいたくなったりする日もあるでしょう。一人の人間としての感情を持つことは自然なこと、母親である事実を忘れず、素直な気持ちで、反省しながら子どもと一緒に成長していくことが大切です。と記述しています。
2022年11月25日投稿
収入印紙とは国庫収入で租税や手数料、収納金徴収のため政府が発行する証票だ。具体的な用途は、営業・営利の定められた金額以上の領収書、公的文書、不動産登記、契約書、手形、自動車検査、申請書等々、文書作成や手数料など多岐にわたって使用される。その使用方法は公的書類や領収書等に収入印紙等を添付して消印する。また、消印は再使用防止の為に捺印またはサインされるのが目的である。
この印紙等は先に述べた通り国の財源である。その収入印紙等を購入に当たり、例えば車の燃料ガソリン等の二重課税(税に対する消費税)と同じように、郵便局及び委託された以外の印紙の販売は二重課税されて売られている。また領収書の場合、平成26年の法改正で課税対象額3万円から5万円に引き上げられた。つまり、5万円以上で収入印紙を添付しなければならないが、5万円を消費税内税にした場合は印紙を使わなくてよい、その逆の外税は課税対象になる。そのような訳で印紙等の用途と購入課税は細分化されているが、果してこの収入印紙等は本当に必要なのか考えてみた。
印紙税は明治初期に安定財源として採用されて現在に至っており、年間の税収入は1兆円を超える貴重な財源となっているが、ここ最近の政府のアピールとしてペーパーレス化の動きや、捺印(ハンコ)を無くす事など電子文書化が話題にあがっている。これはアナログからデジタル化への政府肝いりの推進事業であるが、その中で印紙等は紙文書とのセットで、切っても切れない仲である事を前提に考えると、印紙税の財源を確保するアナログ体制と課税対象外のデジタル化する矛盾がでてくる。もしかしたら将来、公的文書や領収、証書関係を完全デジタル化した場合、別途に印紙税相当分を支払う可能性も考えられるのだ。しかし、それでも課税はなくならない。
そもそも何故収入印紙等が必要なのだろうか?。課税される文書に印紙等を添付する事で、証明や証拠、契約証明として公的な文書として扱いされるが、文書に本人のサイン及び指紋でも十分効力が発揮する。また、課税文書にホログラム印刷を設けて、その中にマイクロチップを埋め込み、個人情報(サイン、指紋等や契約同意内容)を記憶させ、再書き込み不可を導入するだけで公的文書として通用するはずだ。
それらを総合的に考えてみると、印紙等は係争した場合の証拠書類と言う事で、国としては安定した財源のみである事。完全デジタル化は、できるものと、できないものがあるではなく、矛盾が生じない課税も考察する余地が有ると考える。
ただ、国の財源は税収入で大部分賄っている。収入と支出のプライマリーバランスを考える中で、増税、減税は常にその時代や先の時代に応じた税改革が求められると思う。
2022年12月12日投稿
貧困とは文字通り貧しくて生活が困難な事を示す。世界の貧困率は、WEB上などで統計資料が公開されている。それらの国々の貧困状況が数値化されていて数値上ではあるが現状が把握できる。おおまかに貧困の定義は絶対的貧困と相対的貧困に分かれ、絶対的貧困は衣食住と環境衛生が最低限の基準以下で、相対的貧困は、可処分所得(税等を差し引いた所得)が基準値以下である事を示している。それらの定義を基に、貧困の現状を机上で理解しても世界の脱貧困を無くすために、私はあれこれ考えるが具体的な施策は見出せない。
各国の非営利団体等が途上国(貧困国)に援助、寄付して、その効果がある国や政治的理由等で効果が得られない国などもある。また、貧困の原因として先進国では所得の格差の問題、途上国では気候・地理・文化・教育・医療・インフラなど先進国を含め、様々な問題が絡み合って貧困が発生している。
国内総生産(GDP)が高いほど国民総所得(GNI)も高い。当然と言えば当然だが、要は貧困を無くすのは、末端に行き届くお金と労働力の問題である。GDPが低い国は比較的貧困率が高い、なので外貨収入と労働生産が途切れなく得られると少なからずともそれは改善されるが、それらも先進国等はインフラなどの投資で開発援助協力している。しかしそれでも地球のどこかでは衣食住もなく人間として最低限以下の生活が現実に存在している事は、無視できない現状だ。
先に述べた通り、貧困の原因は分かっていても一向に改善されない。政治がいけないのか、それ以外なのか解決の方向を導き出すのは難しい。例えば、どこそこの国で生まれて良かったとか、最低限の生活が維持されているにも拘わらず生活が苦しいとの話を巷では聞く。また、日本では消費されない食品ロスがゴミとして年間何百万トン発生して処分(一部再利用)されているが、その処分量は世界中で飢餓に苦しむ食料支援量を上回るのだ。これらの事実を貧困者から見ると、どの様に捉えるだろうか。
世界中のどこで生まれようと同じ人間である事は間違いない。水も食べ物もない環境で育つ結果、平均体重以下の子供たちや成人は必然的に寿命が短くなる。それらを回避するために基本的には該当する国家が対処しなければならない事と並行に、国際機関などが援助、提言している貧富の格差、特に富の再分配も含め国際社会が軸となって取り組を継続していかなければならない。其の上で今一歩踏み込んだ議論をしてほしい思いだ。
貧困は絶対的であろうと相対的であろうと末端の人達が主に被る。その人達を他山の石や対岸の火事と思わず、人の生きる平等は世界共通認識であると共に、生きる権利は生まれた時から保証されなければならないし、その権利は誰も搾取してはならないと思う。