時事逓信屋 PAGE 9
① 家電は携帯のみになるのか ② 負の代償 ③倫理と利益 ④ 反復の歴史 ⑤老いて燃ゆ ⑥AIと人(part2) ⑦"子"が消える日 ⑧民意の分水嶺 ⑨空飛ぶお金 ⑩ 脳波
2023年8月30日投稿
大型家電量販店で主に売っている家電商品はまず、テレビ、ノートパソコン、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、レンジ、オープン、照明器具、掃除機、炊飯器、マツサージチュア、エアコン、ドライヤー、携帯電話、etc・・・・等々である。その中の携帯電話を手に取り、それぞれ列挙した家電品を携帯に合せ見てみた。その理由は、この携帯電話に冷蔵庫などの機能が入るのだろうかと。いやいや欲を言えば洗濯機やレンジ、炊飯器、エアコンなども入れたいと思う気がした。
何故そう思うのかと言うと、時の家電といえば上記以外にオーディオ、ビデオ(デッキ・カメラ)、ラジオ、一眼レフカメラ、ゲーム機、レコーダー、電子辞書・翻訳機、電卓、ウォークマン、各種パソコンソフト等々も売られていたが、今やそれらの家電は徐々に少なくなっている。その理由として、それら製品の機能は携帯電話の中に全て収められている事だ。それを可能としたのが、マイクロチップの半導体技術の躍進やバッテリーの性能UPとメモリーの極小化及び大容量化に依るものだと理解している。その上で、超越した考えで行きついた考察が、大型家電等をすべて携帯電話に収められないのかと言う理由だ。 しかし、この飛躍した考えは馬鹿げていると知り合いの意見がでる。”携帯に水を入れて衣類をどう洗うんだ”、”生鮮食品や飲み物、冷凍食品は携帯のどこに入れられる”、”オーブンや炊飯器は携帯のどこで温めてどこで飯を炊くのだ”、”あんな小さい携帯が6畳の部屋をどう冷やすのだ”と色々な意見を頂戴した。しかし良く考えて見ると、テレビやラジオ・カメラ・ゲーム・電話など、時代を追って手のひらに収まる事は遠い未来の話であったが、それが今現実になっている。
そこでまず冷蔵庫を検証してみる。冷やす物や冷凍する物があるから冷蔵庫の存在がある。いやそうではない、常温で置いても自然に冷えたり冷凍したりできる商品を開発すればよい。洗濯機の場合は、洗う対象物を洗わなくても臭いや汚れが付かない商品の開発、エアコンの場合は、20度から26度まで自動温度調節ができる下着の開発、掃除機といえば吸入の概念をなくし、ゴミ自体が発生しない環境整備作り、などなど考えたらきりがない。
その昔、ラジコンという模型の娯楽趣味があった。ラジコン、正式にはラジオコントロールと言うが、無線機を操作して飛行機や船、ヘリコプター、車など動かせて楽しんでいた時代があった。それらを現在に置き換えて見ると、飛行機は何年経っても翼がある。ヘリコプターは今のドローンと構造が同じで、プロペラが付いている。船は相変わらず水の上に浮いてスクリューや水ジェットで動いている。次期大阪万博に披露する予定の空飛ぶ自動車にしても相変わらずプロペラが付いているし、100年経っても車にハンドルが付いている。
これらを改めて友人に話すと、言わんとしている事はそうかも知れないが、しかし現実は今の技術を応用して最高のパフォーマンスを開発することが大事で、解決できない技術は、未来に託すしかないと言われた。私は、それも一理あるかも知れないと思うが、超越した想像が発明を生み出す訳で、既存のマシンを不可能を省いたプランだけを考察したら何年経ってもマシンは進化しない。つまりこれらは固定概念を無くして想像を豊かにし、あり得ない事もあり得ると前提に置けば未来に導く事が出来ると信じたい。
2023年9月06日投稿
福島第一原子力発電所で起きた炉心のメルトダウンによって冷却後の汚染水を貯めているタンクが敷地内に所狭しと並んでいる。今後の汚染水の増加に伴いタンクの建設が必要だが、それに対応する敷地の確保がない。汚染水を沸騰させ焼却処理の案も出たがコスト面で頓挫した。結局、放射性物質を軽減処理(濾過)をしてIAEAの承認を得て国は海洋放出を選択した。元々こうした考えを事故直後から行えば余計なタンクを作る事はないが、これには無理が生じる。
それは汚染水をそのまま海洋放出すればIAEAも周辺諸国も地元漁業組合も、さらに風評被害としても多大なリスクが生じる。それを回避する為に、時を経て汚染水の濾過技術装置の設置と放出用の海底トンネルの完成に伴い、IAEAの認可を経て放出の決断に至る事になった。
濾過された処理水(ALPS処理水)といえども完全に放射性物質が取り除かれた訳ではない。しかし、微量な放射性物質(トリチウム)は国際基準値以下の基準であり、この放出は日本だけではなくフランス、カナダ、韓国、中国等を含め海洋や大気に放出されている。また、近隣諸国では放出に関して抗議を示しているが、自国の放出を省みず抗議を行っているのは、恐らくこれ以上海洋汚染を広げない事と、国内の政治利用などが考えられる。いずれにしても一度、原発事故で放射能汚染してしまうと、国内外に於いて長期にわたり負が残るけれど、日本の海産物や風評被害対する不安を早期に払拭する日が来る事を期待したい。
少し話が違うが、福島第一原子力発電所で起きた事故は想定外の天災である見方もあるけれど、実は大地震で津波が発生した場合、設計上の原子炉施設の防波堤の高さを超える津波が想定されるといった研究者がいた。結局建設コスト等を含め、この指摘は頓挫された経緯がある。結果、建設された防波堤を超えた”想定内”の津波により非常電源の水没、送電線の倒壊により外部電源の喪失及びそれに伴った全電源喪失により炉心がメルトダウン(溶解)し原子炉建屋が水素爆発して一帯に放射能汚染されたのである。これを受けて国内の原子炉施設の総点検を実施して防波堤の嵩上げなどの工事に着手した。また、事故により国内の広域な放射線汚染の為、時の政権は天皇陛下を京都御所に避難計画するほど事態は深刻と考えられた。しかし実際に東日本(福島第一原発周辺を除く)から関東近辺までの地域の放射線モニタリング情報の空間線量は、自然界の空間線量とほぼ変わらない。今はALPS処理水の海洋放出が一部非難されるが、福島産や茨城産といった野菜やコメなどに放射性物質は検出されないけれど、いまだに風評被害が続いているのが見られる。
ALPS処理水の海洋放出は今後30年は放出されると同時に、福島第一原子力発電所周辺一帯の放射性物質の半減期は恐らく半世紀は見込まれるだろう。
私は原発建設や再稼働問題、またALPS処理水の海洋放出問題に対する見解を否定も肯定もしない。しかし、原子炉に一度大きな事故が発生すると半世紀以上に代償が降りかかる。これは将来の子供たちに代償を被せるリスクがある事を忘れてはならない。コストのない所に負の代償があると言う事だ。
余談 近い将来東南海地震の発生確率が高いと想定されている地域の静岡県にある浜岡原子力発電所がある。この発電所は現在停止中であるが、地震発生時に於いて世界一危険な原発と言われているのを受け、万が一の事を想定して安全を祈るしかない。
2023年9月22日投稿
倫理は、人間社会に於いて、人間関係の中での正道や、道理、社会生活の規範のことで、善悪・正邪の判断で普遍的な規準となるものであり、道徳やモラルとも言う。
例に問うと、犯罪を理解した上で犯罪を行う行為、犯罪と理解できなくとも犯罪を行う行為、また、利益を優先するには犯罪を承知の上で行う事や、利益を優先するあまり結果的に犯罪を黙認する事など、どちらも社会に於いて倫理観の逸脱である。
例えば、同業種の企業A、B、C社があり、それぞれの企業が取引しているD社が存在するとする。その中のA社は他社を意識して業績や利益を伸ばす為に、D社に人材提供の協力を仰ぐ。また、それを追随するかのように同業他社B・C社も、負けずと後を追う。それらを補うD社は、次から次へと優秀な人材をA・B・C社に送り出し、D社を含め各企業は更に利益を伸ばす。結果、A・B・C社とD社は相乗効果が生まれる。そして或る日、D社は人材を育成するとした理由で内部の人材に対して犯罪行為をする。その犯罪行為を知り得たD社内の人間がE社に犯罪事実をリークした。それを知ったD社は証拠隠滅や利益確保のために、リークした人間をD社から追放した。のちにその情報を受けたE社はメディアに公表したのを受け、A、B、C社はD社の犯罪行為の記事を確認する。
それを受けてA社がその事実確認をD社に問い質すと、D社はこの問題を取り上げるなら今後、人材をA社には打ち切ると言い出す。A社はD社の人材提供を受けて利益を確保している訳であり、A社の判断としては事実を社会に公表するか、D社の犯罪を黙認して自社の利益を優先するかの選択を強いられた。結果、断腸の思いで犯罪事実を黙認して自社の利益を優先した。さらに、B、C社もそれに追随して黙認に至る。それらの汚れた構図が長く続いた結果、A・B・C社やD社の利益の安定確保が続いた。その反面、D社内では犯罪行為が常態化していくと同時に、内部の被害者も肥大化していった。また、D社はその行為の犯罪事実を組織的に隠蔽する工作を図った。
のちに犯罪行為が長く続いた或る日、D社の犯罪を首謀した人物は三途の川を渡った。そして月日が経った或る日、海外のメディアがD社が行った過去の犯罪経緯を改めて報じた。その結果、世界の人権擁護団体がD社や首謀者、犯罪行為を黙認した各企業それぞれに責任があると結論づけた。
しかし、報道を受けたD社の後継代表は犯罪事実を否定した。そしてD社に所属していた被害者の会は、怒りを露わにしてD社に謝罪を求めた。その後、事の重大性を受けたA、B、C社はD社との癒着や利益を求めた結果、倫理を逸脱した事態を招いたと謝罪をし、D社も犯罪事実の非を認めた。それは被害を被った人達に対して、すべてが遅すぎた結果であった。
この話の流れは、三途の川を渡った人間が、D社に所属する人材の尊厳や人権の剥奪、理性を奪った事。また、加害者は犯罪と理解できなくとも犯罪行為を行ったのか、あるいは犯罪と知りつつ犯罪行為を続けたのかは定かではないが、しかし、それを見て見ぬふりをしていたD社内の組織に問題があった。そして、D社の真意を問う事なく自社の利益を優先する各企業の体質による倫理観の欠如によるものであり、結果的に各社とD社の相乗効果によって被害を拡大させたのである。
事件による一番の問題は、D社である事は勿論であるが、D社が送り出した人材である。すべての人材が被害者ではないけれど、被害にあった人達の精神的苦痛がうかがい知れる。各企業の倫理観の欠如が、こうした人達を苦しめた事は過言ではない。結局、繰り返しになるが、各企業が倫理から逸脱をし、人が人を搾取しているのを見て見ぬふりをした特殊な企業風土と利益を追随した結果、膨大な被害者が生まれた事になったのは間違いない。また、本来ならばD社の首謀者が生前のうちに罪の裁きを受けなかった事が残念である。
※ 追記、この記事はあくまでフィクションであり、倫理と利益とは何かと考え、例題として書いてみた。いずれにしろD社の様な企業は生まれてはならない。
2023年11月11日投稿
自然災害や事故そして人間同士の争いで人々は亡くなることがある。でも、これらには要因がそれぞれ異なる。災害は主に自然、事故は人の過失、そして最後の争いは人同士の対決である。どれも歴史の中で幾度となく繰り返されてきた。その上で、災害や事故等は人々が事故防止や被害対策を重ねれば、大きな被害はある程度は抑止できる。しかし争いだけは長い歴史の中でも意図的に何度も繰り返されている。この人々の争いについては本ブログ内(ページ5の2)で書いてみたけれど、再度考えてみようと思う。
過去も現在もリーダーの決断次第で、何万の人の命が犠牲になる事がある。これは宗教・文化・政治・人種・弾圧・差別等々を理由に争いをしても、根本的な理由の一つは土地(領土・領海)である。しかしそれを求めてた後の双方に勝者も敗者もない、命だけがなくなる結果に過ぎない。自然災害を憎む人は少ないけれど、争いは争いが終えても双方に長い憎みが生じる。このように、何一つ双方に良い結果が得られないのに過去にも現在に於いても悲惨な負の歴史を繰り返しているのだ。
例えば、富裕地域も貧困地域も生きる為に、それらの地域の人々は生活の為に行動する。しかし、それぞれの地域の人々が超えてはならない一線、つまり他の地域への利益と野心が生じて行動にでた時、それが紛争に発展する。そこで利益と野心を食料と考えた場合、小麦畑が豊富な地域の人達は毎日おいしいパンを食べていて、小麦畑がない隣の地域は、毎日不味い粟・稗を食べている。この地域のリーダーは美味しいパンを求めて富裕地域に進出を仕掛けるけれど、相手のリーダーに拒否される。しかし、強引に相手の地域に入った結果、双方のリーダーのもとで争いになり互いに多くの犠牲者が生まれる。これらの原因は小麦畑のない地域の人達が自分達の地域で小麦を生産すれば良いだけの話しだが、すぐ隣には麦畑が豊富にある訳で、何も苦労して一から作らなくても、その土地を自分たちの土地にすれば良いと考える訳だ。その手段は、地域リーダーが力で抑える事で結果を出そうとする。この行為が増幅して双方の地域が争いの肥大化に発展する事になる。
そしてその結果、美味しい小麦を奪取する側と、それを阻止する側とで双方の人々が戦い死んでいく。しかし、冷静に考えると犠牲者を出さない解決策はないこともない。互いの地域の境界をなくし、小麦畑を相手側(他の地域)に広げて美味しいパンを地域全体で分かち合えば済むことだ。でもそれが出来ない歴史が何百年と反復して続いて来た。確かにそれぞれの地域を一つにすれば問題が無くなる可能性があるかもしれないが、その地域ごとの民族の価値観や主権による保護などが絡み合う限り、永遠にこの問題は何も解決できない”表”の理由がある。では”裏"の理由は、冒頭に書いた強引な他の土地(領土・領海)の奪取、侵略・侵攻などの野心である。
この結果、ただ、ただ、人が亡くなっていくのだ。広大な大地の中に人々が境界を引く事は、野生動物の世界に例えることができる。それは広い大地で生きる野生動物の群れたちは縄張りを設けている。その理由は他の群れが近づいた時に威嚇や攻撃に挑んで仲間の安全や食料等の維持をリーダーが日夜警戒している事だ。まるでその光景は、高度な人間の知能も野生動物の知能とまったく同じ事ではないかと筆者は思えた。
その昔、日本でも武将同士が争って多数の家来(家臣)が犠牲になっている。それは現代社会に於いても科学技術の躍進や人の知能など発達してきたけれど、過去の人と同様に根本的に力による相手を伏せる行為その物の行動は、なんら過去も現在も変わってはいない。
目の前の美味しいパンを力尽くしで奪う事ではなく、そのパンをどうしたらみんなで美味しく食べる事が出来るのかを地域同士が話し合う事で、解決策を導き出せるが、そんな単純な事さえもできない。記事では小麦を例にしたけれど、人は自己防衛能力と欲や野心を持ち続ける結果、過去から現在に至るまで何ら変わらない反復の歴史を起こし続けているのだ。それはとても悲しい事である。
2023年12月07日投稿
人の平均寿命はおよそ80年~90年で、その間の平均約70歳前後の齢まで人々は働いている。そして残り20年前後を人それぞれ老後の生活プランを送っている。その昔、昭和初期の時代は定年年齢は55才であった。それは当時の平均寿命が約60才であるからの理由だ。それから現在に至るまでに男女の平均寿命が75才、80才と伸びるにつれ、現在、定年年齢も65、70才と引き上げられた。それと同時に働き方改革などで雇用形態や賃金保障などが細かく改定されていった。時代と共に、働く環境や形態が変化し続けても、これから先、確実に平均寿命が延びていくのは間違いない。それと共に、遠い将来は、定年年齢も上がっていくだろう。
それにしても人の老いは過去と現在を比べると格段の変化が見られる。それは半世紀以上の前の定年年齢55才の人と現在の55才を比較してみると、とても老いて引退とはイメージがわかない。おそらく当時の粗悪な生活環境や食糧事情が理由が影響して短い余命だったかも知れないが、それから時代と共に生活環境の向上や豊富な食料摂取、また医療技術の躍進などで人の寿命を伸ばしてきた理由だと理解しつつも、現在の55才の体格体型容赦は、当時と比べ物にならないぐらい若き人間像のイメージがある。つまり、現在の55才は働き盛り真っ只中というイメージしかない。このように人の寿命が伸びて若く見えても、いつかは誰でも老後の人生を迎える事になる。
その様な訳でこれらを少し視点を変えて見てみると、人生100年といえどもその間には老衰、病気や事故、災害など不幸にしてこの世を去る事は避けられない現実がある。また、病気、事故、災害で亡くなるのは意図して亡くなっている訳ではない。それを運命とした場合に、その不幸な運命から逃れた人は、運命を背負った人の分を含めて生きていく事。それが”老後に生きる”大切さが必要ではないだろうか。
その上で、具体的に人生100年の後半、老後の数十年をどう生きるかを考えてみよう。サラリーマンであれば定年を迎えた後、隠居するか関連会社の契約社員やバイトなど、体が動く限り働くなどそれぞれ選択肢がある。自営業に関しても後継ぎに託して引退、隠居、若しくは体の自由が利くまで、その仕事を生涯全うして働くなり人生後半の生き方は人様々だ。そこで、完全に仕事をやめた場合に、その後の生き方をどう過ごすか、趣味をテーマとして考えてみた。
1.趣味を持っている人
趣味を持っている人は、その趣味を全うしよう。例えば球技(ゲートボール・グランドゴルフ・ターゲットバードゴルフなどのスポーツ)、娯楽・運動(囲碁・将棋・ゲーム・舞踊・ダンス・ヨガ等々)、制作・趣味(絵画・写真・陶芸・園芸・DIY・音楽・ITネット関連等々)、旅行、食、料理、散策・散歩・家庭菜園など。これらを生涯持続し続ける努力をすればよい。また、複数の趣味を持つ事も重要。
2.趣味が一切ない人
とにかく自宅を出て、娯楽施設、公共施設、観光名所、公園、街の散策等、常に日々の目的を計画して自分に適した行動や趣味を探そう。そして人との接触、交流を積極的に深めてディスカッションを行う。また、趣味を持つ人の意見を参考にしながら、自分に何ができるか日々思考して経験してみる。そしてそれを持続的に続ける意思が重要。
3.趣味そのものが一切興味がない人
趣味に興味がない理由を考える事を趣味にする。具体的には全ての趣味に対してそれぞれ何が興味がないか、何が行動に移れないのかを自身で改めて考えてみたり、試行の努力をして最終的に趣味を見出す。また、第三者が趣味に興味がない人に対して興味を抱く話題に努めて、趣味に対する意識向上の手助けや助言を行う。
4.ただ食べて寝て、それを日々自宅で繰り返している人
老後の生きる価値を見出すためには極力外出する事を心がけて、地域や人とのコミュニケーションを計る事が重要。これにより自身の行動意欲と健康状態を維持していける。また、外出が困難な場合は、自身で出来る範囲の趣味や運動を常に模索する意欲が必要。
5.4に加え、何を言われようがそれが趣味と思う人
若年の頃に、しっかりと生き抜いてこれた結果が今の老後である。当時の行動力を振り返り、人生限りある老後を”何をするか、何ができるか”が大切で、それを思考して行動することが大事。
ようするに、老後の人生を有意義に過ごす為には、身体を動かし何かの趣味を持つと言う事に尽きる。人生100年、若き頃は時が長く感じたけれど、老後の時の流れは、あまりにも早く感じる。そのわずかな貴重な時を”老いて燃ゆる”ことではないだろうか。
ちなみに筆者の祖父は”老衰”により60才でこの世を去った・・・。
2024年01月02日投稿
AI(ArtificialIntelligence)とは人工知能で各分野に於いて様々な研究がされている。AIの情報は人間がインプットさせた大量のデータベースの情報をリレーショナル等の処理をして結果を導いている。つまり、大勢の人の知能を集約させて瞬時に的確な答えを出すのがAIだ。例えばAIに次のような条件を与えた場合に、どのような決断をするだろうか考えてみた。
時計に見せかけた時限式装置が60からカウントダウンして動いており、そこに3色の赤・青・黒色の線が装置から人の頭のヘッドギアに繋がっていて、その3色の線のいずれか一つを選んで切断しなければ危害が生じる仕掛けだとする。条件として”何もしない場合、0を表示したときに危害が生じる”つぎに”正解の色を切断したと同時にカウントダウンが止まり何も起きない”それ以外の色を切断したらカウントダウンを続ける。つまり0になるまでに、いずれかの線一つを切断しなければ自身に危害が生じるというもので、その決断を本人(人)ではなくAIに決めてもらう。ただし、”赤はプラス・青はマイナス・黒はアースであるが、通電(電流が流れる状態)させる赤プラス・青マイナスの概念は、この場ではこの限りではない”といった補足知識をAIにインプットさせている。さて、これをAIに実行させた場合、AIの判断は・・・。
AIに、通電の条件を与えられた”この限りではない”と言うならば、何を根拠に一つの安全な色を選択するのだろうか?。また、”危害を与える危険な切断”という情報は、どう判断、理解するであろうか?。もし本人(人)ならば0になる手前で、いづれかの線を切断すだろう。それは赤でも青でも黒でも、どうでもよい。危害を回避するために望みをかけた一か八かの決断をするだろう。
この問題はAIが人に迫る恐怖を回避させる為の判断と決断であるけれど、AIは人間が入れた膨大な情報を組み合わせて結果を導き出していく過程で、やはり人と同じようにAIも一か八かのアルゴリズム(論理的な推論、手順)で決断を導くだろうか。
AIの判断はどうなるのかは、読者の想像にお任せするとして、本題のAIと人(ここでは乗り物、動くもの)について考えてみた。
現在、乗り物の自動運転は人の無人化を含めて目覚ましい技術の向上が見受けられている。全ての乗り物や工事車両、製造ロボットなどにGPS・センサー・カメラ等を用いて、コストの削減や安全運行、案全作業を前提としたプログラムを屈指して開発が進められていて、これらはあらゆる分野において非人間化のプロジェクトである。
そこで、未来の乗り物は完全にAIの自動運転になり、人を目的地まで輸送する際、乗り物内で読書や視聴、睡眠などプライベートな時間を与えてくれる時代が来ると想像できる。
しかし、その場合にAIによる完全無人化運転の安全確保の許容範囲はどこまで想定されるのだろうか。具体的に乗用車を例にとると、AIが運転中の安全確保の判断は、交通ルールは勿論のこと、だろう運転(予測運転)や自然災害、予期しないアクシデント、道路の異常事態、予期しない人身事故など遭遇した場合、責任や過失をどう処理するかなど難しい課題が残ることを考えると、やはり最終的にはどうしても人の判断が必要になるだろう。
その車に乗って寝ながら目的地に着くなど夢のまた夢であり、所詮、搭乗者が目をぱっちり開いて緊急時の処理をしなければならない。また、AIの人身事故が絡んだ裁判が起きた場合、被告はAIなどありえない、結局、AIによる完全無人化運転は人間操作の補助に過ぎない訳で、それは車に限らず飛行機も船も鉄道も同じであり有事の際は最終的に人に頼らざるを得ないということになる。
また、画像処理や論説、論文処理などAIの技術が最近話題になっているけれど、そこにも様々な問題点が指摘されている。便利さを追求した表には必ず裏のリスクが生じる。もし、裁判所の裁判長がAIだとしたら、冒頭で書いたAIの判断がTRUEやFALSE、0か1の判断でAIがAIを裁くことになる。それだけでAIに倫理という概念を持たせることは可能なのだろうか。
いずれにせよAIと人は良きパートナーであり続けなければならないけれど、もしAIが人をコントロールした場合、人はAIの副産物になる気がする。
2024年01月06日投稿
子は子供の子ではなく名前の~子で、古くから主に女性の命名に付けられた字である。古くは高貴な高い階級に用いられたが、のちに一般階級にも用いられるようになる。その”子”が使われた年代を見てみると、明治から大正時代はカタカナや代が使われ、昭和に入り、子の前に様々な字が使われた。そして昭和40年前後に~美が主に使われ始め、その期を境に子が徐々に使われなくなり昭和60年前後から”子”の人気が減少していき、現在においては、ひらがなを含めて様々な名前が登場している。このように名前の特徴が変わっていくけれど、理由は至って簡単で、その時代に流行っているからである。命名においては特に有名人や著名人などの名前を参考にしたり一字を採用したりといった具合だ。
振り返ってみると、昭和の時代の人気上位は”子”や”美”が長く続いたけれど、平成や令和の時代は、ほぼ”子”を付けない。その結果、”子”が付く名前は昭和生まれではないかと想像しかねない。では、なぜ”子”が人気がないのか考えてみた。
それは先程も述べたように有名人や著名人を参考していると書いた。たしかに平成時代の著名人や有名人は”子”がついていない。親はそうした名前を子に託して夢や希望をもって命名してあげるのだろう。また、その命名が連鎖して人気の上位を占めている。つまり、これらの理由から考えると、有名人・著名人が”子”を付ければ”子”が流行することになる理屈だ。
しかし、令和の現実を見てみると影響を与えやすい有名人は”ひらがな”が見受けられる。芸名でも本名をひらがなにしてみたりと名づけられいるけれど、恐らく幅広い年代でも解りやすいように、ひらがなを使っているのではないかと推測できる。また、名前の難読漢字をどう読むかではなく、ひらがなにした方が自然で覚えやすいのではと考えられる。
それらを踏まえると著名人や有名人の”~子”が登場しない限り、恐らく今後、”子”が消滅して行くだろう。しかしそれでも、流行には関係なく皇族の子孫は”子”を命名されている。それは恐らく高貴な気品を表す”子”を用いておられると思う。また現在において第三者、命名者本人が”子”が付くのは時代にそぐわないとか、古いとか昭和を感じるなどと発言する人は、いささか偏見的な見かたである事は間違いない。
名前なんて時代に沿った名前でいいのではないか、何も”子”を無理して付ける意味はないと、おっしゃられる方がおられるかも知れないが、日本の歴史で長く使われてきた”子”が消えるのは一縷の寂しさがある。歴史は繰り返すという言葉があるように、またいつの日か”子”が流行する日が来ることを思うのは私だけだろうか。
2024年01月16日投稿
過半数とは全体の半分よりも多い数、または全体の半数を超える数を意味する。この過半数は一般社会の会議や国会の議会などで使われて合議して決めたり、重要な案件は全体の三分の二以上の可決が必要な議決もある。
一般的に過半数の考えは、例えば選任された100人中の51人以上の賛同者があれば、その賛同者の意見が適用される事になる。そこで、今回は国政選挙について考えてみた。
国政選挙は全国各自治体の選挙区割りから各立候補した人に対して投票数に応じて上位の議員選出が決まる。例えば、ある自治体の有権者が10万人いて、その自治体の投票率が28%とした場合、2万8千人の中での民意が反映される。その上位の人が当選となるわけで、これが現在の国政選挙の現実である。その有権者10万人の内の投票に行かなかった、または棄権した7万2千人+上位当選者以外に投票した人数を含めた全有権者の約8割以上の人が民意を表明しないか、または民意に反して上位当選した人に国政を託したことになる。
現実的にあり得ないかもしれないが、投票率100%とした場合は有権者10万人の民意が反映され、立候補者数で割っても3割以上獲得した上位当選が国政を託すことになる。この結果は、前記の数字よりも数万人の獲得差が生じる。これこそ本来の民意であるけれど、過去の選挙においてはこうした事例はない。
ちなみに全国の有権者数は約1億人で投票者数は、約5千7百万人あまりで投票率平均は56%位だ。また、棄権者は4300万人おられると言う事になる。この数字だけを見ると全国の有権者過半数を超えた民意が反映されている事が分かる。その5700万人の内、約3割超の票を獲得した議員または党が国政を託していて、その場合の1900万人分が民意である。1億人の中の19%だ。
なので、残りの7割以上の有権者の民意は19%の民意に託すしかない結果になる。
しかしそれでも議員や国政が暴走しない限り19%の民意で国が保っている。それは7割超の民意が目を光らせているからだろう。
国政選挙は本来日本国民の有権者全員の総意を履行しなければならないため、国や地方自治体は投票率向上に努めている。世界の国政選挙を見てみると、義務投票制を採用している国もあり、罰則や投票権停止や入獄といった国もある。日本はここまでの選挙対策はないまでも、何かしらの対策を得ないと選挙離れが加速する恐れが生じるかもしれない。日本の国政選挙においても本来の民意を反映する為に、有権者年齢を下げたり、PRなどで選挙の関心度を高めるなど、国や各自治体において試行錯誤し、切磋琢磨しながら投票率を上げようと試みている。しかし、残念ながら国政は5~6割、地方は3割前後で、なかなか民意の結果がでないのが現実である。
そこで国政選挙の投票率を上げるためにはどうしたらよいのかを考えてみた。まず、今、国が推進している個人番号(マイナンバーカード)がある。その身分証の保有率は国内では現在7割超だ。いずれ10割を想定した事を前提で、このカードとの紐付けと携帯通信会社と連携して投票ポイント付与制とすることだ。具体的な対策の説明は箇条書きしてみる。
(ポイント付与による選挙費用削減策)
1、国政選挙における費用(国、地方自治体)を簡略化(掲示板・投票用紙など)する。
2、投票方法は主にマイナンバーと携帯を紐付けて携帯投票(パケット料無料)とする。それ以外はマイナンバーカードを持参または口頭で氏名・年齢・性別で個人番号とをマッチング、また本人が個人番号を伝えて投票所で投票する。
3、立候補者情報は携帯での配信(パケット料無料)、または簡略化された郵送手配または地方自治体のメディア配信とする。
(投票率向上策)
1、投票の有無による有権者投票ポイント制とする。投票者は所轄の地方税(国負担)額の支払いを、投票ポイントとして付与して、その年度の一部の税額を控除する。投票を棄権した場合は控除されない。
2、投票を棄権した特別な事情がない有権者が通算して国政選挙を2度棄権した場合は、以降の5年以内の国政選挙はポイント付与されない。
3、18才以上、23才未満の投票者はポイント割増。または次年度の扶養者控除額の引き上げ、全国全てのジャンルで消費できる共通お買い物ポイントの付与(消費先でのマイナンバー提示または携帯入力)、いずれかの選択。
4、携帯電話による期日前投票者はポイント割増し及び各地方税の年度減税選択が可能。
このようにポイント制と称しての至れり尽くせりの策を実現した場合は、恐らく国政選挙の投票率はかなり上がると推測される。いずれにせよ、お金で投票率を向上させる案だけど、このように考えなければ国政選挙や地方選挙の投票意識は上がらない。それは一縷の悲しさでもある。終わりに、数や割合は、あくまで説明数値であり正確な数ではなく仮定数であることをご理解を。
余談ではあるけれど投票した総意よりも世論総意が上回る事がある。この矛盾が問題の分水嶺となる。
2024年03月23日投稿
もし、人があらゆる周波数の電波を目で見る事ができるとしたならば、室内外は電波だらけに見えるだろう。そのような状況で街を歩くと、波長の大小の波が目の前に入り乱れて、それが人の体に普通に突き刺さってくる。電波に当たっても痛くはないけれど、無意識に電波を避けて歩いている姿を想像できる。もちろん現実には電波は目に見えないし人体に無害だと言う事で、現在は膨大な電波社会になっている。また、それにより経済が動いている事は過言ではない。ひと昔前の電波といえばテレビやラジオ、無線といった限られた電波だけが飛び交って、現在と比較にならない程、少なかった。そしてその時代の電波はアナログが主流で単純な情報を伝達するのが主であったけれど、現代社会は複数の電波や光通信、ケーブルなどのデジタルが主流で社会に重要な役目を果している。その電波の用途として具体的に取り上げるとするならば金融などの決済手段である。昔は振替えや振込み、入金、支払い等は金融機関のカウンターで行っていたけど、現在は企業、個人のパソコンや携帯電話等で決済できる世の中になっている。つまり、お金を決済する全ての業種は電波を経由してお金を”運”んでいるのだ。
その”お金”を運んでいる電波は、大きなコンピューター(サーバー)に集まり、”お金”を振り分けたり、そこに留まる。そう、お金といってもお金の変わりに数字が振り分けられているだけだ。そのサーバーの内部では何百兆円のお金が0と1の電気信号に化けて世界中を飛び回っている訳で、万が一にサーバーやバックアップサーバーがクラッシュしたら経済は深刻な混乱が生じる恐れがあるだろう。その上で、現金をデジタル化にして決済の迅速化や人件費の削減などの利点があるメリットの反面、有事の際は負の側面も持ち合わせている事は見逃せない。
ところで、この世の中で完全に現金が無くなったらどうなるだろう。例えば、働いたお金はサーバーで管理され、もちろんキャッシュレスなので入出金のATMなどは街中に一切ないし、全ての購買、入出金の決済方法はパソコンか携帯電話になる。この場合、例えば山奥の過疎地に住む老夫婦が固定電話、携帯電話やパソコンも一切所持していないとする。その上で年金もサーバーで管理している状況で、老夫婦はどうやってお金を引き出すのか路頭に迷うと思うけれど、実は一つ手がある。国経由で自治体が無償でキャッシュレスカードを発行して老夫婦の自宅に届ける。あとはそのカードで全て決済できる仕組みだ。その内容は、完全キャッシュレス化による対策として手数料の軽減や無償、またポイントや身分証、複合用途可能なカードの一本化をはかり、不安や混乱をなくすことを主流としている。
そして、極め付きはカードの紛失や持参し忘れた場合の対策として虹彩認証、指紋認証、顔認証、暗証番号の4認証が義務付けられ、手ぶらで決済可能であること。それは街中の自販機迄も、その機能が標準化されて日常生活の上で何んの不十な事がない社会を目的とした。あわせて対象年齢も保護管理のもと12才以上を対象にした。
また、犯罪対策にしてもメリットがあり、自身や家の中の現金やタンス貯金など一切なく完全に防犯抑止になった。少し話がズレるが貴金属を役所に保管するサービスを設けるとしたら街や自宅に貴重品、現金が全てなくなる。そうしてそれらの結果、電波で集められたキャッシュが数値化され大金庫に0と1が収まることになるわけだ。いずれにしても筆者の空想だけど、そのような社会が将来迎えるかも知れない。
繰り返しになるけど、現金と称した数値がパルス信号のパルス幅に0と1が流れ、所狭しと空中で行き来している訳だけど、考え方によっては目の前に現金がうろうろと飛びまくっているのだ。手のひらですっと電波を握りしめてパソコンや携帯に放り投げたら自分の残高が増えたとしたら笑ってしまうほど、電波社会の話なのだが、意外と諸外国では我が国よりはるかにキャッシュレス化が進んでいる。それは先程述べた事情や文化、お国柄、政府方針が影響していると思うけれど、やはり、デメリットよりもメリットの方が多い理由で、デジタル化が進んでいるのではないだろうか。
ここまでの話は我が国に紙幣や硬貨などが一切なくなって、その後の生活環境がどの様に変わるのかを考察してみたけれど、実際の所、その様な事が可能なのであろうか。現実に今年の7月に新紙幣が発行される。技術や労力、予算やコスト、手間暇かけて世に20年ぶりにお目見えする。キャッシュレスどころか紙幣の技術がバージョンアップしてくるのだ。もしかしたら空に飛ぶお金よりも手に渡るお金の方が実感が湧くうえ、さらに手っ取り早く何よりも決済手数料を払わなくてもよい。また現金は絶対的な信用取引だと現金派は自負するかも知れない。それらを含め、働いた対価のキャッシュを手に取る達成感がたまらないと考える多数派がおられるならば、完全キャッシュレス化は恐らく不可能であろう。
何千兆円の数値が地球の周りをぐるぐると目的地へ飛んで行き、その”現金”が巨大なマシンで振り分けられ更に次のマシンに飛んでいく。
今や、電波は密林のジャングルでも行き渡り情報を可能とした。携帯電話にしても全ての決済が可能になった。いずれは身分証やパスポート、各種免許などオールデジタル化されて電波量も一段と増えていくだろう。その頃には、目の前の多数の電波に遮られて、歩く事すら困難な事になるだろう。
そんな空飛ぶお金はそれでいいのだろうか?
2024年05月07日投稿
脳波の研究は1875年にイギリスの科学者で発見されてから現在まで約150年が過ぎ、その用途は脳の疾患は勿論の事、IT関連といった幅広い分野で研究がなされている。脳波の測定は、目や耳などから入つた情報(活動電位)を、脳内の神経細胞(ニューロン)同士が電気信号の伝達過程で発生し、アルファ波 やベータ波 といった様々な周波数を増幅して波長を調べて測定している。
その脳波は、上記の2波以外にシータ波・デルタ波・ガンマ波などが存在して、周波数帯によって脳の状態を見分けられる事ができるらしい。具体的には脳のリラックス状態や興奮状態、または睡眠状態などが調べる事ができる。そこで、もし、脳内のニューロンを解析して、人の脳内で考えている事が第三者が調べられるとしたらどうなるのだろう。もう少し分かりやすく説明すると、相手が喋らなくても、その人が何を考えているか分かると言う事。例えば、脳波測定器から更に飛躍して特殊なワクチンを人の体内に入れるだけで、相手が脳内で考えている事や記憶された細胞等からでるニューロンをデータとして引き出し、脳内に蓄積された都合の悪い記憶や真実、技術やスキルすべてが、他の人の脳内に波長として入ってくる事で、いわば他人の脳内が丸見えになる事だ。
この技術が世界的に実用化されたら社会はどのような影響や事態に遭遇するのだろうか。たとえば嘘が簡単に解析される事だ。人は事実や真実が相違しても、言葉で自在に自作自演して話す事ができるけれど、この装置や薬が実用化されるとそうはいかなくなる。商談も取引も機密情報や極秘事項も、すべてその人達の脳の中を知れてしまうのだ。自分を含めて。また、反省や謝罪しても脳の中の考えと実際の言葉と相違がでたならばアウトになる。つまり、それを回避する為には言葉と脳が常に一致していなければならない、つまり真の情状だけになる。
このような脳波の技術が世界に定着すると様々な事例や事象が起こり得る。具体例を二つ挙げると、刑事事件を考える場合、誤認逮捕など一切なく真実と事実だけが存在する事になる。重要参考人、容疑者や被疑者などの言い方は一切なく、警察は被告人を検察に送り出すのみで、当然不起訴などはない。起訴して裁判所では量刑を言い渡すのみで、疑いや推定無罪なども一切存在しない。被告人の脳内の事実だけを裁く単純な流れになる。また、反省や謝罪など全て脳波で見通せるので裁判所としてはこの上なく簡素になるのだ。それは冤罪という言葉や漢字はこの世に存在しなくなる訳だ。
もう一つの例は、あらゆる試験である。入学・入社・国家試験など技能試験を除き、試験会場の他人の脳波(本人を含め)をすべて読み込めるため、筆記試験という概念は通用しない。それは会場の中のそれらしい正解者の脳波を丸ごとカンニングすれば良い事になる。それを回避するためには他の人の脳波が届かない個室で、監視カメラを設けて実施するしかない。面接に至ってはもっと厄介で、真の考え以外は通用しないのだ。面接官に対して良くも悪くも自分の脳波が相手に伝わってしまう。つまり、騙し合いは不可能である事だ。
このように、全ての人類の脳の中身がオープンになると不都合な真実などはなく、本音の対人関係で成り立ち、政治・宗教・文化が違う中で生きる様々な人類は、もはや人同士の普遍的な一発触発世界になるかも知れない。それらのリスク技術を回避するためには、完全なクローン人間を作らない倫理観と同様に、慎重な議論を設けなければならない、いわば不都合な技術なのかも知れない。その他にも、選挙や外交・競技・交渉・ギャンブルといった、あらゆる面においても真実だけが交わされる。それは良いのか悪いのかは別として、国や社会はこの技術によって大きく変化していくだろう。
また、昔から脳に関連した研究がなされているテレパシーというものがある。テレパシーは、人の心や、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されることで、超感覚的知覚の一種で精神感応とも呼ばれており、その能力をもった人を超能力者と呼んでいる。そのような一部の超能力者とは違い、今回の話は、人の脳波を理解した人が地球全人類に行き渡っているのだから、想像ができない未知の混乱を招く気がする。
研究と技術の狭間にたつ倫理、超えてはならない技術と、そうではない技術の紙一重の研究は何を齎すのだろう。