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不可能2  映画  カーボンニュートラル  ワクチン  昭和のおじさん  バブル 硬貨の預金 砂の器 輸送のピークアウト 

photo→神奈川県大和市内にて

不可能2

 不可能、文字どうり可能ではない事。総合研究分野は、”総合領域、複合新領域、人文学、社会科学、数物系科学、化学、工学、生物学、農学、医歯薬学と分類されている※詳しくは文部科学省(系・分野・分科・細目表)を参照。その不可能等を、あらゆる分野に於いて研究・実験等が行われている。不可能とは可能にできない結論の言葉だ。でも、何故不可能なのか?”不可能だから不可能”では説得力がない。例えば言葉の意味で、無理は努力すれば可能に近づける、しかし不可能は努力しても不可と?不可能は現在の時点であり得ない表現なのか?何故不可能と結論付けるのか?

例えば、スポーツで走り高跳びの選手が5メートルを飛ぶ、重量挙げの選手が1回で1トンを挙げる、其々はあり得ない事と結論付ける。その理由は人間の肉体的・構造的な問題で不可能だと。その様に現実を絡ませ相対的に結論をだし、不可能と言う言葉を出して、それ以上議論が進まない。上記の総合研究分野で、不可能を可能にする研究文科もあり、それらの研究者達は恐らく”不可能と言う言葉は存在しない、だから研究している”と言われると思う。

”不可能”、つまり不可能と言う言葉はこの世には必要ないかも知れない。不可能を可能にするには長い時間が掛かかり、少しづつ解決し未来に向かって時は進むが、肯定したら時は止まってしまう。だから、根拠のない結論”不可能”は人類の進化を止めてしまう。不可能は現在解決できない言葉で可能の反対語ではあるが、この場合も可能の反対語は必要ないと思う。さらに、言葉の表現で”無理なことは不能で不可能”と”出来ないものは出来ない”なら、”出来ないものは可能になる努力が必要”と締めくくりたい。

フランスの英雄ナポレオンは”予の辞書に不可能という言葉はない”と名言(正確には不可能と言う言葉はフランス語には無いと言っている)している。最初から否定しては何事も先を見いだせない。

映画

2022年1月12日投稿

 昭和30年代から数十年間、日本中に映画館が沢山あった。よく両親に連れられて映画を見たものだった。この時代は一般家庭にテレビが少なく高価な為、映画館はとても人気があった。その映画館、現在はとても少なくなり、自治体に依っては、ない所もある。いや、人口の少ない自治体は、ほぼ映画館はない。現在はテレビの躍進、ネット環境の構築で、何時でも映画は視聴できる時代、そうした影響で映画は衰退化して行くのだろうか?

その映画の話だが、映画を作成する上で、現在は3D技術を組み込み、SF的な空間を描写して迫力感を視聴者側に与えている。その技術はとても良く出来ていて、現実に存在して居るかのようにインパクトを視聴者に与えている。例えば、映画のアクション場面は、危険回避の為によく3Dで構成され、背景や舞台セットも巧妙な3Dで作成される事も今や少なくない。将来、高度な3Dの映像技術が廉価で作成された場合、主人公(または主人公も3D)以下、全て3Dで構成される時代が来たらどうなるだろうか?

視聴者側は、圧倒的な迫力感で満喫するが、その反面、作成に携わるスタッフ等は、限られた分野の人材に限られてくる。其の為、照明・大道具・小道具・カメラ・撮影機材等々の人材が必要無くなるのだ。また、実在しない俳優も3Dで作成されたら俳優も必要されなくなる。更に、アニメを考えると声優・イラストレーター・企画作成者等の人材は必要でも、実際の俳優は要らない。この様に映画に携わるスタッフは限られ、完全3D化したら映画俳優等を含む人材等は必要ない危機がくる。

3D技術の躍進はとても良い事だが、昔ながらの映画に携わったスタッフ・俳優等を守らなければならない事も先行きの課題だと思う。村上春樹原作の短編小説を映画化したドライブ・マイ・カーが、ゴールデン・グローブ賞(非英語映画賞)を受賞した。特にデジタル技術を屈指しないアナログ的映画だが、それは、人のごく自然的な演技と、其々の人間模様が描写されている映画で、デジタルでは表現できない作品だ。

また、2003年に公開されたアメリカ映画フォーン・ブース(電話ボックス)は、主人公が街角の電話ボックスを利用して電話を切った直後、その電話ボックスに呼び出しベルが鳴り、主人公がその受話器を取った所から物語が始まるが、この映画は上映時間約1時間20分ほぼ全て、その電話ボックスと電話相手スナイパーとのやり取りのシーンで、ラストシーンでは、一瞬それらしきスナイパーは登場するが、謎のまま終了する。撮影シーンは電話ボックスのみなので、恐らく制作費用もそれほど掛かっていないと思うが、この映画の最大の特徴は、デジタルでは表現出来ない人間の精神的、心理的演技である。3D技術の躍進は日進月歩で飛躍しているけど、実際の人の演技、スタッフ等は、これからも活躍しなければならないし、人でしか出来ない技術、演技を継承してもらいたい。

デジタル技術3D映画は、それはそれで良いが、結局、高度な技術社会になれば成る程、人が人を変え、それに順応した働き方を求められるけど、残さなければならない”技”は無くしてはならない。

カーボンニュートラル

2022年1月13日投稿

 文字どうり自然界以外の人為的CO2(二酸化炭素)の排出量と森林が吸収する量をゼロ(均等)にする事。つまり、現在森林が吸収する量よりCO2の排出量が多く、その結果、温暖化・気象変動を招く為に、それを回避する国際的な取り組みだ。オセアニア大洋州にあるツバル、インド洋にある島国、モルディブ共和国は共に海抜数メートルで、海面が上昇する危機に迫っている。

モルディブ共和国を例に取ってみると、海抜が約2メートルしかなく海面が1メートル上昇すると、国土の約8割が消滅すると言われている。また、南極は温暖化現象で、氷が徐々に無くなってきており、気温に於いては、約30年で2度上昇し、現在も少しずつ上昇している。仮に、南極の氷が全て解けると、海に面した国は海面上昇が約60メートル上昇し、日本に於いては関東平野等が水没する。それらを阻止する国際会議が開かれているが、全世界の国が賛成している訳ではなく一部の国は努力義務を声明している。ツバルの政府代表は、将来国土の一部が海に沈む危機を、海の中に設置した壇上で会議をリモート中継し参加した。現実的訴えがとてもインパクトで印象的だった。

先進国は脱炭素努力はしているけれど、どうしても経済優先になり、目標数値まで時間が掛かる。また、モルディブ共和国の基幹産業は観光収入で国の人口よりも観光客が多く訪れ、先進国・工業国からの観光収入の恩恵と、自国の自然環境の維持が垣間見え、難しい問題に直面している。気温上昇は一概にCO2だけの問題ではないと主張する学者もおられるが、それら原因はともあれ、約100年の間に19cm海面が上昇している事実がある以上、まず取るべき対策を講じないと、温暖化現象は歯止めがかからない。CO2問題は過去を振り返ると、工業発展に於いて油を燃やす事で経済が成長した反面、長い間放置した結果の負の処理で、途上国も先進国も相互に恩恵を齎している事を考えれば、各国は脱炭素削減協力する事を切に願いたい。

今、私たちは対岸の火事と思わず、子孫を残す為に人類が国境を超えて協力し合う事で、この美しい地球を守ことができる。環境を壊すことは意図も簡単だが、自然環境の維持と経済を両立する事は、人類一人一人の意識、努力と実行が求められると思う。

ワクチン 新型コロナウイルス

2022年1月15日投稿

 今から約2年前、中国湖北省武漢市で新型コロナウイルスが確認された。それから現在までに全世界に感染が広まり、死者数・感染者数も増加傾向になっている。新型コロナウイルスに限らないが、過去には多種多様なウイルスに見舞われているが、それに伴ってワクチンが開発され、人類の生存に寄与してきた。新型コロナウイルス対応のワクチンは全世界で死亡者が急増している中、米国のファイザー社、モデルナ社がワクチンの提供を開始した。日本でも提供が開始され、日本国民の7割強の人が接種した。その後、全世界ではワクチン製造開発に力を注いでいる。ワクチン接種に於ける当初の発表では、接種間隔を開けて2回接種を行う様に説明され、1回目より、2回目の方がウイルスに対する抗体量が多くなり、コロナウイルスに対して人々は安心、安堵感が広まった。しかし、ウイルス株が次々と変異して感染拡大する中、それに対応する3回目の接種が余儀なくされたが、その理由は時間と共に抗体量が減り、更に抗体を増やす処置だと言う。ワクチンを2回接種した人も感染している事実を鑑みると適切な処置だが、問題はそのワクチンは時と共に抗体が減少し、繰り返して接種を行わなければいけないのか?と言う事だ。

ファイザー社が感染初期症状に効果を期待できる口径薬を日本でも特別承認され、医局、薬局等に配布しているが、接種同様に更に新たな変異株が発生した場合、その効果はどうなるのか?コロナ感染者がゼロのにならない限り、接種・口径薬を投与し続けるか、ウイルスと共存して行くかの選択肢しかないのだろうか?インフルエンザウイルスは100年以上経っても無くならない。そのインフルエンザも1年に1回の接種を余儀なくされている。

現在、重傷者・死者数が減少しているのは、2回目、3回目の接種効果なのか、または現在の変異株其の物の毒性が弱いのか、いずれにしろ今後も新型コロナウイルスの変異株が発生する可能性も否定できない以上、減少・増加を繰り返す可能性を潜めている。其の為には1回のワクチン接種で、あらゆる変異株に効果がある完全なワクチンを期待するしかない。ある国ではいち早くワクチンを2回接種し、街角でマスクを外して、多数の人達が飲酒をしながら歓喜溢れる場面の報道があり、確かに私も羨ましい気持ちが心の底にあった。そう、誰だってワクチンを打てばもう感染しないと心に思ったはずだ。でも結果的に次から次へとウイルスが変異し、未だ新型コロナウイルスは猛威を振るっている。

感染予防に関しては、感染第5波迄の教訓を生かし、強力に外からのウイルスの侵入を防ぐ空港検疫等、水際対策を強化しているが、結果的に鎖国対策でもしない限り不可能だし、自国変異株が発生する可能性も否定できない。それらを考えると新型ウィルスが発生するたびにワクチンを期待するしかないのが現状だ。

毎日報道されている感染者数、重症者数、死者数等は国民に対して注意喚起を促すもので、それと同時に経済を維持し、ウイルスと戦い乍ら人々は生存して社会生活を支えるしかない。それには私たちが今出来る感染予防策(マスク・多人数の接触・衛生)の徹底と、一刻も早く安定したワクチンができるよう期待したい。

昭和のおじさん言葉

2022年1月15日投稿

 よく家族や街角で昭和のおじさん(おばさん)が、”今の若者は”とか、”昔はこうだった”とか、お話しをしているのをよく聞く。それは、その人達がその時代を顧みて現在と比較していう言葉と、昔はこのようにしたから現在もできるだろうと、例える言い方をする。でも現在の若い人達は過去を語られてもピンと来ないし、過去は過去、現在は過去と違うし、過去の事を現在と比較または自慢されても若い人には意味がない。では何故おじさん達は、過去を言いたいのか考察してみたい。

現在の若い人は当然過去の時代を全て知る由は持っていない。さらに、若い人と話す機会がある時、おじさんは、ふと何気なく過去を話して相手の反応を試みるが、若い人は”それは昔でしょ!今は時代が違う”と固く語ったおじさんに対し、スルーされるのが現実だ。でも、おじさん達は熱く語りかけるとき、嘘でも本気で聞き入る態度を若者が見せつけると、おじさん達は更にエスカレートし熱く語るのだ。このおじさん達は何故過去の人生・社会を語りたいのかは、若い人達に昔の教訓を伝えたい思いで現在の人に理解してもらい、それを習いなさいと、恐らくそう熱く語りかける。でも、実際若い人は過去の事はどうでも良い事で、参考にはなるが現実は現実で、過去の話を語られても何の役に経たない。知識は継承されても現状の社会生活は、過去の産物しか過ぎない以上、今の生き方を若者は直視する。よくおじさん達は過去の仕事・経験を熱く語りかけるの見かけるが、その興味以外の内容は、若い人達にとって”どうでも良い言葉の産物”である。

歌に例えると、昔は良い曲が一杯有った、でも今は訳の解らない歌手が訳の解らない歌詞で歌っていると、語る。でも、そう語るおじさんの親は恐らく同じ事を思っている事を忘れている。その様なおじさん達は矛盾を矛盾と思っていないのだ。今、この記事を書いているおじさんは、そこまでおじさん的な思考はないので、公平な解釈で書ける。

今回の趣旨は、おじさんは過去を顧みず、現在の若者を直視して当時若かった頃の自分と、若い人の考え方をリンクすることで、相互の理解が得るのが目的だ。別に過去を話すなと言う事ではないが、過去を話したら参考になる若い人もおられる反面、聞く耳を持たない人もおられる事も理解しておきたい。

お年を取ると、うるさく神経質になる方や、おとなしく穏やかになる方など様々であるが、全ての先輩おじさん、おばさん達は若い方に愛される交流をして、余計な過去はできるだけ慎み、共に穏やかな社会を築かなければならないと思う。

バブル

2022年1月18日投稿

 1980年代後半、日本経済は株価、土地等の急激な高騰により日本は歓喜に溢れていたが、1990年頃、株価、土地等の急激な下落により景気が大きく後退した。当時私はサラリーマンで、仕事が終わると接待、私用など歓楽街に出向く度に、何処もお客で満席だった記憶がある。私の仕事の給料は固定給で、実際の景気は実感できなかったが、他の商売をしている知り合いから話を伺うと、何の商売を初めても儲かった、と、話してくれた。その様な時代、好景気から泡のように消えた原因を少し考えてみたい。

当時、日本は円高により不況が続いていた為、日本銀行は利息を引き下げて低金利(肯定具合の引き下げ)で銀行等に通告した。その為、銀行等金融機関は、積極的に企業等に対して融資し、企業側もその資金を元手に、株式や不動産等に積極投資して莫大な利益を得ていた。当然その利益の一部が消費等に回され、起業する多種多様な商売も右肩上がりの好景気が続いた。企業の投資先は主に土地・建物・株式に集中され、結果、不動産価格(路線価)、株価等が急騰し、その中で土地・建物に於いては、高値の段階で不動産を売却して、その資金で更に不動産投資を繰り返した。その結果、適性評価以上の土地・建物が異常高騰したため、日本銀行は対策として金融引き締めを実行し、不動産融資の規制策と肯定具合(利息)を引き上げる処置を銀行等に通達した。その結果、規制策で企業等は投資資金の借り入れの停滞や、高利息により不動産投資で利益を得る事が難しくなり、それらの影響等で異常急騰した土地・建物評価・株価が下落して行くと同時に、不動産目的に借り入れたお金も、投資に回せなく借金だけが膨らんだ。

金融機関も融資金を回収するため担保にした不動産等を確保するが、急激な土地等の評価割れになり、元金も回収できない不良債権に陥っていく。当然、借り入れた企業も資金ショートし、破産宣告して倒産して行き、更にこの時代は世界的に不況が続いていたと同時に日本に対し、アメリカの関税の引き下げ要求等で、対外貿易等も日本は苦しんだ。そのバブル崩壊の債務は今でもその負を背負っている。景気対策として日本政府は試行錯誤で手を打つが、なかなか景気が回復しない。国内総生産(GDP生み出された付加価値の総額)の2.4倍弱の国が抱える借金と、デフレ状態は今も活路を見いだせていない。当時、日本銀行の金融緩和政策実施と、緩和引き締めのタイミングが、結果的に手遅れになってバブルが崩壊した一つの原因だったが、その反省を基に日銀は、あらゆる想定を慎重に判断していく事になった。

80年代以前はGDPに対して、国債は1倍以下をキープしていた。国債を増やすのはいとも簡単だが、減らすのはとても時間が掛かる。日本はヨーロッパと違い円は自国で発行できるが、円を大量に発行し国債を償還したら、恐らくインフレが待ち構えている。更に国債が増え続けたら国際的評価も下がる事が考えられる、日本国有資産の売却のような事態を招かないよう、世界一の借金大国(GDP比)を他山の石と考えず、国債は私たちが間接的に融資している事と、国債と歳出のバランスを国民は注視し乍ら見て行かなければならないと思う。

その時代を生きた人から、今の若い人に”昔は良かった”と言うと、恐らく若い人の反応は、”それは先輩達がそうしたから今の景気だ”と皮肉られるかも知れない。

硬貨の預金

2022年1月20日投稿

 100円ショップ等で硬貨専用貯金箱を買い、コツコツと硬貨を貯めては、一杯になった貯金箱を銀行に預け、また貯金箱を買いに行く。今時はキャッシュレス時代で、わざわざ貯金箱を購入して迄、小銭を貯める意味はないと言われる反面、”塵も積もれば山となる”と言う諺が有るように、貯金も一つの楽しみでもある。著者も1円玉から100円玉迄の貯金箱と、500円玉専用の貯金箱2種類が有る。其々一杯になった貯金箱の行方は、やはり銀行に持ち込み、自分の口座に預金するが、初めて硬貨を持ち込みした時、ここで思いもよらぬ事が生じた。それは自分が差し出した預金額よりも少ないのだ?<U>※後で気付いた事だが硬貨の両替・預金に対する説明書きのポスターが目の前に貼ってあった。疑問を抱いて行員に問い質すと、預金をするのに手数料が発生する事を説明された。今回預金をした500円玉貯金箱の中身は硬貨MAXで600枚位なる。つまり、30万円位だ。その金を預金するのに枚数に応じて、手数料を差し引いた金額が預金額になる事実。これは、私は知らなかった。

手数料を取る理由は、銀行のコストが背景にあるようだ。そのコストとは、硬貨を処理する人件費、硬貨枚数自動選別機(硬貨精算機)等の購入費用・メンテナンス、硬貨搬出輸送等で、それらのサービスと利益を対比すると採算が合わない理由があるようだ。そのコストを補填するには手数料を付加することで、多少でも利益が得るよう行っているようだ。しかし、預金者側から見れば、銀行に直接現金30万円を持ち込み、預金して、尚且つ手数料を控除される事はどうしても矛盾が生じる。両替については、預金と同様に枚数に応じて手数料が発生するが、これには特に異論はない。硬貨をお札に、お札を硬貨にと、コストだけが生じ、どちらも利益がない。銀行の付随的サービスだと理解する。両替で手数料を取られるなら、両替が必要な店舗に硬貨を持ち込めば、喜ばれる場合も有る。それらを考えると硬貨の両替と預金では一緒くたにする事は無理がある。

話は少しずれるが、日本政府の発行した国債は、銀行等が買っている。つまり国債の購入資金は、私たちが預金したお金を運用しているので間接的ではあるが、預金者は大切な投資家、お客様である事を忘れてはならない。それゆえ、硬貨預金も通常預金と変わりはないのだ。貯まった硬貨を銀行で手数料を払いたくなければ、タンス預金しかない。しかし限りなく硬貨の重量が嵩張る上、大量の硬貨で物を買うこともできず、結果的に銀行に行く羽目になる。冒頭で書いたように、キャッシュレスをしていれば何も手数料を払う事もないし、小銭も貯まらないが、日々貯まる貯金箱は趣味、貯蓄と考えれば一石二鳥である。でも、その最後に手数料が待ち構えているのは、これも時代の流れだろうか。

砂の器

2022年1月22日投稿

 砂の器は1960年読売新聞夕刊に連載された松本清張原作の長編推理小説で、その後1974年松竹映画で公開された。その内容を大まかに説明すると、東京蒲田の国鉄操車場内で殺人事件が発生し、担当刑事と容疑者逮捕迄の刑事物語だが、ここで注目したいのは、容疑者(以下、子と呼ぶ)の犯行動機で、森村誠一原作の長編推理小説”人間の証明”の内容とを垣間見る事ができる。

その”砂の器”は子が幼い頃、父がハンセン病(らい病)で患っており、その病気を避けるように母が去り、その後、新天地を求め父子の放浪の旅(巡礼)を決心した。その際、長い巡礼生活の中で、巡礼先での父子に対し、”いじめ”等の誹謗中傷を受け乍ら生活を繰り返す中、旅先の警察官に父子が保護され、父は保養所に、子は養子縁組する予定だったが、子はそれを嫌がり行方不明になる。その後、18才になった子は大阪で空襲の被害で戸籍焼失した夫婦の長男として戸籍、年齢を詐称して生きた。その後、子はのちに著名な指揮者になったが、東京蒲田で自分の過去を知る人物が現れ、その人物が忌々しい自分の過去知っている事に危惧を感じ犯行に及んだ。さらにその後、自分の過去を知る人に対して次々に犯行に及ぶ内容だ。この小説の最大の特徴は、ハンセン病(らい病)で、らい菌により皮膚等に症状が現れる感染病で、その潜伏期間、症状が長い。生活環境が悪く、免疫力が少ない人に感染するが、現在ではほぼ発症しない。その当時は遺伝病ではないか、伝染するのではないか、と噂され、人々は偏見の目で見て差別的な態度をとった。何の根拠もない考えだけで、その様な感染病に対し偏見的差別社会を原作者は問い質していると思う。

差別と言えば、アパルトヘイト(人種差別問題)で肌の色が違うだけで差別され、未だに世界の一部では人種に対して偏見感がある。人はそれぞれ生まれた時から平等で、どんな環境でも差別は有ってはならない。それが現在も無くならないのは、他山の石である事。もし、仮に偏見されている人が、偏見されている人に対して偏見するだろうか?先天異常で生まれた人対して、”かわいそう”と思う人は、それも偏見である。

この映画のラストシーンで、会場で指揮をとる子が脳裏に浮かぶ過去の生き様を回想しながら演奏を続ける。映画のテーマ曲”ピアノと管弦楽のための組曲【宿命】”が過去の思いと曲が相まってとても良く構成されている。映画、”人間の証明”も内容は別として、ラストシーンはよく似ている。この年代は様々な社会問題を抱え人々は翻弄した。それらの実態を理解して貰う為に、映画や小説、ドラマ等で問題を問い質し、社会の反省を求めた。地位、名誉を守る為に、過去の都合の悪い事実を消したい行動は、間接的、結果的にその人の人格全てを無くす。

輸送のピークアウト

2022年1月24日投稿

 動物の中で乗り物を使用するのは人(人類)だけである。人は移動の手段を動物・機械を利用してる地球上の最強の動物で、尚且つ日々移動方法を進化させているのだ。その昔人は歩いていたが、後に目的へ移動する為、走った。その後、馬を使用し、馬車・自転車・バイク・自動車・機関車・船・飛行機・ロケット等、移動技術とスピード(速度)も著しく早くなったのだ。野生動物で逃げる速度が遅い動物は、早い動物に襲われるが、これは自然界の掟で成り立っている。野兎がチーターに襲われないために、羽を使って逃げたら自然界は成り立たなくなる。それ程、人は自然界に成り立たない動物の域を超えたスーパー動物だ。

そこで、今回は輸送手段の鉄道に着目してみたい。鉄道の歴史は、実用化になった蒸気機関車が約100年間続き、その後、ジーゼル機関、モーター(電気)と進化して行った。当然、技術躍進でスピードアップ化が図られていき、国内航空界との競争手段(移動時間・運賃)等で競う時代に入り、現在、JR東海が建設を進めるリニア中央新幹線は直接レールと接触しない超電導磁気浮上式を採用し、磁気の反発で車両を浮かせて走行するが、実験速度では最高速度、時速約600キロをマークしている。これは、東京~大阪間1時間を切る速さだ。大阪の市街地(目的地に依る)に行くのに、羽田空港から伊丹・関空を利用して市街地へ行くより早いかも知れない。そのリニア形式の鉄道が全国網になったら、経済を含む新時代の輸送社会になる。

もし、仮に飛行機の巡航速度と同じスピードなってしまえば、航空界の国内便は窮地に追い込まれる恐れがある。利用者は何時の時代もスピード、利用額(運賃)を求め、それに応じた輸送会社では、サービスの改革を求め続けられる。でも100年続いた蒸気機関車の時代を思えば、遠い将来、鉄道は現在の輸送スピード、飛行機と同じ速度で維持していけば、鉄道も航空も利用者に対して、より良いサービスの選択肢を与える事ができる。そして、競争化社会に於いて超えてはならない一線があるかもしれない。

2022年1月27日投稿

 銭は日本で使われていた(いる)通貨の単位。明治時代、日本の通貨単位として制定された円、銭、厘といった通貨単位だ。円に対し銭は100分の一、厘は1000分の一で、1.234円は1円23銭4厘となる。この通貨単位は、株価指数・為替レート・先物取引等で表現されているが、1953年小額通貨の整理に関する法律が制定され、1円未満の端数は通用停止とされた。通貨ではないが一部の切手は今でも有効な物がある。

そこで、銭の通貨は70年程前に廃止されたのに、現在でも扱われているのは何故だろうか?理由はともかく、客観的に見ると昭和後期、平成生まれの人達は、銭の単位は知るけど実際に使用した人はいない。でも、メディア等では通用していない通貨単位を報道している。例えば、本日の為替レートはドルに対して、50銭高の〇〇銭と説明されるが、過去の通貨単位を普通に用いて報道している違和感は、私だけだろうか?私なら本日の為替レートはドルに対して、0.5円高の〇.〇円と説明する。小数点以下”.”ピリオドを、ポイントと変えても十分である。

もう一つ、100.652円と表示している商品価格に対し、その円、銭、厘で表現すれば100円65銭2厘となる。消費者は左記のような価格単位で言う人はまずいない。この場合、店側の配慮で101円若しくは100円と切り上げ、切り捨て処理する。その理由は、通用停止されている通貨なので、流通通貨その物も無い訳で、100.652円をキッチリ払う事はできない。そんな訳で、何故、株価指数・為替レート・先物取引等で小数点以下の通用停止されている”過去”の通貨単位を使用している事に疑問が残る。

現在の社会はデジタル化が進み、高度な技術改革の中で、現代用語も日進月歩に生まれている。しかし乍ら、どんな通貨単位の言い方でも別に問題ないと言われたら、それ迄だけど、時代の流れに沿った表現の改革は、何も利益はないが、表現を変える事で、社会の意識変化を与えて行くと思う。

 

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