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ポーチュラカはゾンビか?  生前のお花  緑は何故緑?  不可能  傘がない  ヘム レジの籠 テレビの進化  学校

Photo→神奈川県大和市にて撮影

ポーチュラカはゾンビか?

 2021年10月03日投稿

 バラの花は何故か青い花がない。研究者は青色の色素がもともと花弁に存在しないと言う。理由は解ったが、では何故その色素が自然界のバラには存在しないのだろう?ハーブ類のお花は結構青が多い。この話を興味もったその昔、花瓶に青い水溶液を入れ青くなると本気で思って実行した。しかしこんな単純な事でバラが青くなれば研究者は苦労しない。桜の満開な、とある公園で、散歩中の見知らぬおじさんが”青い桜の花が咲かないのか”と一人で呟いていた。なるほど自分だけではないとその時思った。

所で、ポーチュラカと言うお花をご存じでしょうか?公園とか、花壇とか畦道などで普通に咲いているスベリヒユ科スベリヒユ属の一年生植物で、また食用にもされ日本全土にみられる。そのお花の色も赤・黄・白・ピンク・複色等色々あり楽しめる。

このポーチュラカの花時期は6月から秋頃迄で、お花屋さんでも販売している。初心者でも育てやすく、日中は満開、夜は花がつぼんでオシロイバナに似ていて、日当たりの良い所に置き水やりで元気に育つ。そのポーチュラカはなんと”ゾンビ”なのだ!花の咲いている時期関係なく適当に茎をもぎ取り、下の方の余分な葉を取り除いたら、あとは土に刺すだけ。伸びている茎を全部もぎ取って刺しても、ほぼ全部再生して、いつの間にかポーチュラカだらけになります。ポーチュラカを愛する方はこれを繰り返してください。

生前のお花

2021年10月22日投稿 

 真夏の暑い陽射しも、ゆつくりと通りざかり秋の気配を日々感じる季節となった。早朝の空を見上げると、透き通った初冬の空気が、遠くに見える富士の山が、また一段と写し出して見える。そうした日に何用もなく近くの公園で愛犬と伴に足を運び、戯れた時間を過ごす。愛犬モモは散歩するに辺り、どうもアスファルトの道より雑草が覆い茂った公園の野原が好きなようだ。勿論モモは用を足すのにも必ず後者の方で、”本人”はとても気に入っている。

そのモモを連れて今日も同じコースをリードに引っ張れながら散策していると、今の時期は野原のあちらこちらに数センチ位の小さなお花が咲いている。その、お花たちは赤・ピンク・白と多種多様で、近づいて良く見るととても美しい。その様な状况でも愛犬モモは飼い主の前で燥ぐのだ。

その結果、美しいお花達は、モモの前脚で最期を告げる。人間の足でも恐らく犠牲なる確率は無きしも有らず。外来種で迷惑な駆除植物だと言われる方もいらっしゃる。そう思い乍ら、次のお花を探し見て、モモの犠牲にならない様に観察する今日此の頃。

緑は何故緑

2021年10月24日投稿

下記文章青色 https://optronics-media.com/参照

 植物の緑は,直達日射の最も強い(エネルギー密度の高い)波長域の吸収を少なくして,過剰な熱吸収を避けるのに適していることが示唆された。この傾向は実際の植物の葉でも確認されたが,葉全体では柵状組織や海綿状組織の発達によって葉の内部で何度も反射・吸収が生じるため,緑色光も含めて全ての色の光が効果的に利用できていることが明らかになった。と記述している。

一般的に素人が解釈すると植物は葉緑素(葉緑体)という色素は、太陽光に含まれる赤と青の色光は吸収するが緑は吸収されず植物は光合成する。つまり、緑だけの光が人間の目に入ると言う事だ。植物の葉の末期は光合成する必要が無い為に赤や黄色になる。なるほど、と思うが素人的に根本的な疑問が残る。太陽光の最も強い(エネルギー密度の高い)波長域の吸収を少なくしてと説明があるが、密度の低い色光は必ずとも吸収ではなく反射しても良いと思う。であれば、地球上の植物の葉は緑でなくてもよいはずだ。植物の葉の色はほとんど緑なのは植物にとって生きるのに最も簡単で楽なのでしょうか?なぜ緑かと説明できても、緑でなくても良い説明はあるのだろうか?

不可能

2021年10月25日投稿

 人の脳は日々知能が進化している。数千年前まで鉄も電気も電波の利用も何もない自然界で生き、獲物を捕り自生している植物を食べて人は生きてきた。そもそも人の祖先は、本当に類人猿だったのか?一万年前に生まれた人が今生きている人はいないので、確実に先祖はこれですと証明できない。

話は現代に戻り、例えば一人の人が何か発明・発見したら、その原理を元にどんどん進化していく。便利な”物”は大型になり、不便な物は日々小型化していく。技術の進化で日々成長しているわけで、これでいい当たり前の生活が一人の技術、ひらめきで全世界を変えるのだ。

例えば自動車を例にとると、何十年たっても三輪か四輪で、一向にタイヤが無くならない。ハンドルも未だにある。一部開発しているが、安全技術面で実用化まで去らない状況だ。雨風埃よけに、ガラスが相変わらず装着し、そしてワイパーも。前述に述べたように、一人の発見・発明が将来それらのパーツも何れ無くなるだろう。事実、百年も続いた電球がLEDの登場により、あっと言うまに置き換えられている。そしてお話は未来に・・・・・

最終的に人の脳の指令で車は自由に動き空を飛び廻り、おまけに無限資源である純粋の水または太陽光が動力源となる。更に地球の発電は、大気圏外の光を利用した発電を利用し、地球各地に電波送電して世界全体に供給する。気候もCO2ゼロで、クリーンな世界状況は当たり前になるのだ。空にはグラフィック技術により空中信号ができ、渋滞緩和の対策がとられるのだが、それも無くなり車も自動電波誘導に、地上に於いては、自転車・バイク・車・船舶その他大型交通機関はすべて無くなり、人だけが存在する社会に。さらに、食料に至っては最終遺伝子開発により、より安全な食糧が人の主食になる。土で育てる野菜はもう原始時代の事。人のカロリー摂取は、50グラムのチューブ1本で7日間維持できる。その管理は常温保存でカプセル管理(人類の千年程度)ストックされ労働の対価は必要なくなり、そして人類の平均寿命はDNAの先端技術によって200歳、希望すればクローン技術でその人の寿命は永遠と生き続けるが、人口過多の問題を考慮し特別技術認定者のみが審査・実行される。

また種別産業が消滅し、すべてが一体化産業になり、世界の国・国境・宗教も消え去って人同士の紛争・戦争もない人類共存の時代に入る。金融形態は勿論通貨はなくなり、流通しているのは人の思考のみで、個人利益・企業利益は一切なく、全世界共通の個人思考発展型(無償)で世界は動く様になり、最低でも人の脳は、現代の小型コンピューター並みの脳を有して、生後1年で成人の技術者程度に成長していく。そして物を作る資源は集中管理され、物流管理は世界全体で使用し、製造開発者は指定されたエリアで自由に調達でき、人類の為に生産寄与する、資源の仕入れ体制も同様の事になる。そして超高度社会は人類の成長・生存のみで、人の遺伝子は後世の生存能力だけ身に付ける時代に入っている。

次に人の生活圏は、地上・空中・宇宙更に惑星等、個人の能力で選択し、全ての地域に於いて仮称地球公社により無償で提供される社会に。この時代の自然災害被害は全世界になく、ハリケーン・温暖化・隕石の衝突回避等、技術面で全てクリアーされ、大規模地震・火山噴火に至っては1時間前通知により事前災害回避が完全にクリアーされている。そして最後に医療は人の全部位が人口製造されパーツ交換するのみでオペの簡素化が実施されている。この時代サイボーグは開発されているが、完全実用化には至っていない・・・・大体こんな感じで呟いてみた。・・・しかし良く考えると過去の物々交換の時代を超近代化バージョンに置き換えた様な気がするが、技術の進歩が一歩間違えれば、その過去に戻るかもしれない。いずれにしても、数千年前の人が現代の姿を誰も想像しない様に、数千年先は誰も解らないが人の発見・発明により、未来構造が劇的に変化し、人類の生活様式が変わっていく様子を夢みる今日この頃のももやんでした。

傘がない

2021年10月28日投稿

 井上陽水の歌の題名である。要約すると歌詞の内容は、”人に逢いに行きたいが傘がないので困った”と言っている。逢いに行くのに傘がないので濡れるか、濡れても決行するかの重大な決断を迫られている。ちなみに、ももやんは濡れても決行し、相手からの誠意を期待する。

傘、そう傘の話です。傘の歴史は数千年前から基本構造は変わらない。雨傘・日傘、和傘・洋傘など全世界共通仕様で使用されている。そう、しかも形状も同じで、世界の大統領・プリンセスも、雨の日は片手に傘、何兆円も資産がある方も雨の日は傘、自家用ジェット機でタラップから降りるオーナーも傘、もうキリがない。もしかしたら以前(TUBUYAKI)で書いた”不可能”の時代でも傘なのか?雨の日は必ずどちらかの手が傘に占有されている。途中晴れてもその傘は人に纏わりつき、ついでに杖代わりに使ってくれと言っているようだ。その傘は先に述べたように、何千年変わらないのは何故だろうか。雨は毎日降るわけでもないし、低コストで作れるのでお金をかけて高級傘を製造する必要がないのか。

しかし、問題は雨が降ると必ず傘・カッパなのだ。そこで、Prevent rain雨を防ぐチップを人の体内に埋め込み、人の半径1メートル以内は透明バリアで防護される水だけに反応するチップ。勿論、水害・水難事故にも対応し、人は水死しない。数ミリのチップは皮膚の真下に埋め込まれている為、電源供給は紫外線で供給される。その為、雨の日も給電されるので、人の生涯に対応する。恐らく、数千年前から変わらない傘が数千年先も変わらないと思うが、きっと優れた知能者が開発・発明すると期待しよう。物理学賞か医学賞か生理学賞か、いやいや”陽水賞”ですね。

ヘム

2021年10月29日投稿

 人の血管の中の細胞は赤血球・白血球・血小板が存在している。例えば、赤血球の中の構造は核をもたないヘモグロビンと水で構成されているそうで、そのヘモグロビンの数は数億と存在し、色は赤なので血球は赤くなっている。そしてヘモグロビンの中は数個の分子ヘムが酸素を体内に運んでいるそうだ。そんな訳で、今日のお話はヘムが人間だったら、と言うことで想像して見ようと思います。

ヘム達はヘモグロビンの中に包まれて居ることは誰も知りません。そう、ヘムはヘモグロビンから出たことが無いのです。まして、ヘモグロビンの外は数億のヘモグロビンが存在し、その先は赤血球が包んでいて更に先は白血球や血小板達がうろうろ居るのです。そして、その先には脱出できない血管と言うチュウーブで囲まれている事など誰が想像するのでしょう?。それ以上も以下も未知の世界なのです。現代でこの話を例えると、ヘモグロビンから無事に出た人は数億のヘモグロビンを発見し、赤血球の壁に向かっている。その赤血球の壁は有るのか、有るとしたらその先は何なのか?無いとしたら、どこまで続くのか?と、ここまで考え、そしてチュウーブの外は訳の分からない多種多様の巨大な物体が交差し絡まっていて、更にその先に行くと、超巨大な物体が数億存在し、その一つの中に居た事を、人は恐らくここまで想像できないと思う。。

ヘム(人)、はるか先の果てはまさか人間だったとは誰も想像できないと、勝手に想像している今日この頃のももやんでした。

レジの籠

2021年10月30日投稿

スーパーマーケットに買い物に行くと、特に目的が無いとき野菜→果物→乾物類→肉・魚類→惣菜→弁当→パン類→酒類と廻りレジに進む。特に、意識している訳でもないが、自然とそのコース辿る。いや、自然ではなく、その様な買い物コースになっているのだ。大体殆どのスーパーの陳列順はほぼ似ている。その逆を考えて、パン・弁当・惣菜の順に最後は野菜とコースを辿っても別に違和感はない。例えば、目的の弁当、総菜を買うのに野菜の順から次々と目に入ってくる商品を、いきなり目的の所へ行かないで途中で何か買ってねと、なんだか衝動買い的に誘導されているみたいだ。野菜の場合も同じ事で、いずれにしてもお店は良く考えている。

話は変わり、空いているレジを探して並んでいる時、前の人が何やら先頭で精算している人に対してブツブツ独り言を言っている。恐らく支払いにもたついている事に怒っているのだろう。たしかに、自分を含めレジ付近に来たら空いているレジレーンを探す人を多々見受けられるのは日本人の気質なのだろうか?外国人はこの場に立つと、どう思っているだろう。そう思い乍ら、こっそりと他の並んでいる人達のお顔を拝見すると、何やら険しいお顔をした人がいたが、あの方も恐らく怒っているのだろう。一歩間違えれば修羅場に化すのか?巻き込まれないうちに早く帰った方が無難だ・・・そうこうしているうちに、自分の番が来た。何時もの様にレジの人が、無表情に私の買った商品をバーコードに翳す作業を黙々とこなしている。

そして問題はここからで、自分は持参の籠やエコバックを持っていない。なので、精算前の籠から清算後の籠に商品が移動されるのだが、その方法が自分にとって問題になる。清算が終わり籠から袋に詰める際に、籠の下に埋もれている比較的重い商品を取り出し、袋に入れる作業を繰り返すのだが、その作業が非常にめんどくさい。最初から、レジの人が籠の下から軽い物、柔らかい物、そして最後に重い物を入れてもらえれば、めんどくさい袋詰めの順番作業は楽になる。恐らくお店側の指導は、商品が潰れるのを回避する為に”おもてなし”としてサービスしているのだろう。そうでなければ適当に籠に入れればいいのだから。でも良く考えると自分は買い物中、重い物・柔らかい物をうまく仕訳けていることに結果的な矛盾があるのに気がついて笑ってしまう。精算時、籠の中を右・左に分けるとか、または籠ふたつと・・・・だったら自分の籠、エコバックを用意すればこの話はこれで終了する。

レジ袋の有料化以外に、お買い物をするにも費用を負担しなければ楽にならない自分でした。

テレビの進化

2021年11月1日投稿

 ひと昔、ブラウン管の箱型白黒テレビが市場に登場し、街頭で小さなテレビを国民は見ていて、ニュース・プロレス中継・東京オリンピックなどの放送を興奮し乍ら楽しんで見ていた。のちに、一般家庭でテレビが購入できる様になるが、まだまだ高価な上、一家に一台の現代と違いテレビのない家庭は、裕福な家庭の所に行き、観に行ったものです。そのテレビはのちに箱型の四本脚付きと進化し、放送が終わると観ている家のご主人が”もう終わり”とテレビのカーテンを閉める。ひと時の楽しい時間が一瞬にして寂しくなる時代だった。

そして時は流れカラーの時代がやって来る。我が家も、お金を貯めて東京秋葉原の電気街で待望のカラーテレビを購入、チャンネル変更はガチャガチャ(摘みを回す音)から押しボタン式に、ブラウン管の前のカーテンは無くなったが、その箱型カラーテレビは約60センチ四方有るが、当時としては居間の高級家具扱いで何の違和感がなかった。ブラウン管のテレビは暫く続き、いよいよ液晶テレビの登場に。リモコン操作も本格的になり、箱サイズから厚い板サイズにと画期的な時代に突入したが、1インチ1万円超、平均的サイズで30万円以上はした。そして技術革新はさらに進み、あらゆる端末でテレビが視聴できる様になる。現在は1センチ以下のガラス並みの厚さのテレビが登場し、勿論壁にも掛けられ、熱も発生しないエコテレビだ。此処までのテレビの進化は約60年かかった。

そしてここからは未来の話で、更に60年先は置型テレビは無くなり携帯型に進化し、今のUSB程度の端末を操作すると、視聴したい時に空中に投影される時代に、勿論投影サイズも自由自在で消費電力は太陽光またはLED光により10分程度の充電で連続使用が24時間可能に。国民一人1個の時代で安価なうえに、小型なので落とし物・忘れ物が頻繁に発生して、その時代の頭の痛い所になり、更にその端末は本人とID登録でマッチングされている為に他人は使用できない上、ゴミ扱いされ環境問題になる。時は更に過ぎて行き60年先のテレビは人の体内にチップを埋め込み(希望制)、”テレビ”と発音すると声帯振動で人の目から空中投影される時代に突入して環境問題は大幅に改善された。

学校

2021年11月2日投稿

 ひと昔、中学卒業して就職率は8割、のちに高卒は8割、現在は高卒就職率は2割弱になり、今や専門学校や大学に進学する人が多くなった。学生さんの進学する意図は様々だが、17年間の知識を身に付け社会に。また、義務教育を卒業し社会に出て、専門技術を取得して職を持つ人もいる。そうした人達が経済社会の発展に貢献している。

その学校についてのお話。小学校→初等教育→小学生→児童・中学校→中等教育→中学生→生徒・高校→後期中等教育→高校生→生徒・大学→高等教育→大学生→学生と、其々の呼びかたが違います。ちなみに専門学校は高専生となります。そこで気になるのは高校生で”高学生”ではないのは何故かと言う事。いつから高校生と言われ、また誰が名付けたのか?その、どうでもよい事がどうしても気になる。〇〇高等学校・最初の文字と最後の文字を取り、高校なのか?では高等と学校の最初の文字を取り、高学でもいいわけだ。

何故だだろう。小学→中学と素直に言っているのに、次はいきなり高校なのは何か理由があるのだろうか?ネットで調べてもはっきりした記述はない。いつ誰が高校生と呼ぶようにしたのか?。どうしても知りたいこの頃でした。余談 今の学生さんは・・・と言うのは大学生の事です。

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