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時事逓信屋


記事 塩と砂糖 争い 東南海地震 事実の証明 領土の連鎖 無駄な努力 春の小さな主役 動物と共存 文字の方向

2022年1月31日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

塩と砂糖

 家庭の基本調味料に使用される代表的な物は塩、砂糖、醤油、ソース等である。ある日、うどんのスープを作るため何時ものように出し汁・醤油・砂糖と調味して味見をした。それは何時もの味とはほど遠く、余りにもしょっぱかった。そこで、更に砂糖を追加するが余計に塩辛く、スープ処ではなくなっていた。それを疑問に思い、砂糖を取り出した容器の中身を調べた所、その砂糖容器の中に塩が入っていたのである。
私は、台所の調味料の位置は把握している。具体的に正面左の容器は塩、右の容器は砂糖である。これは何時もの定位置で間違いなかったが、後に調べた所、妻が何時もの位置を間違えたらしい事が分かった。その後の対策として、其々の容器の形を変え、尚且つ種別シールを貼り、誤調理防止策の万全対策を講じたが、よく考えると何故この様にしなければならないのか?と思った。
そこで塩、砂糖が入った容器を其々購入すれば良い事だが、それには購入費用が嵩むため、結果的に其々の袋ごと購入し容器に移せば経済的コスト削減になると思うが、根本的に間違いを改善する策がない。
そもそも塩と砂糖を間違えた所が、今回の問題点になる。それは簡単で、どちらも白で見分けが付かない事が原因である。
そう、”色”で、どちらも白が問題となるのだ。調理で一々塩か砂糖か味を見て料理するのはめんどくさい。例えば、ゆで卵と生卵の見分け方は、回せば判断できる。
ゆで卵は、中身が個体になっている為、作用の方向に対し物質全体が勢いよく回るが、生卵の場合は中身が液体の為、作用の方向に対し物体は回る方向に反作用して動くので回転が鈍るのだ。
この場合、触る行為だが塩・砂糖の場合は舌で味覚を取らなければならないのだ。では、どうすれば解決出来るかと言うと話は簡単で、どちらかに色または粒の違いを付ければそれでいいが、そこにはメーカーの製造コストと卸値の問題が考えられ改善策は見出せない。塩と砂糖はどちらも自然生成であり、着色はしていないし、それは人に欠かせない絶対的な栄養素だけであるゆえに、誤使用を改善したい。
そのような訳で日常的に使用する塩、砂糖に対して誤使用を避ける為には位置をしっかり覚える、容器を変える、識別シール貼る、それでいい話の単純な事に対する疑問の疑問が残るのだ。


2022年2月02日(ももやん)

争い

 戦争の切欠は国盗り合戦だと思う。その昔、世界の国々は宗教・信条・文化・人種・利権等を含め国境線等を引いて、その線内で人々は営なんでいた。それが独立国家としての国では有るが、其々の国の人々は愛国的精神で自国に危害を与える人・利害を与える人など、国の利益に損なう人の排除や、異人種排除等の偏見的過剰な理由と、国益の過剰都合による他国による制裁等の要因、原因などで、昔から紛争、戦争が絶えないのである。
世界の人々は何故紛争、戦争するのかは左記の原因だと思うが、根本的な要因は何処に在るだろうか?国を猿の世界に例えて申し訳ないが、恐らく原始的縄張り争いが基に有ると思う。猿はリーダーになる為には負傷を覚悟で敵に対し立ち向かい、また人間も高度な知識を持った”動物”である。敵に対し猿は体を張るが、人間は知識を利用して武器で戦う。つまり、地球上の動物(人を含む)は戦う基礎遺伝は変わらないのである。
其々の国の人々は縄張り(国)を守り、必要ならば縄張り外の人(国)と取引、情報(貿易)交換して、縄張り内を維持している。しかし時々強権者(国のリーダー)が現れる。

例えば、縄張りの境界線上に置いてある見るからに美味しそうな肉(利権)、それを狙う境界線上の、どちらの群れ(国)も、その肉を狙っている。最初に手(攻撃)を出してもいいが勝負(国の損益)が分からないリスクが生じるのだ。でも目の前の肉はどうしても取りたいし、群れの中(国内)にご馳走を与えたいのだ。どちらかのーダーは群れの為、決断と掛けにでる。そして、決断したリーダーの後を追い、群れ同士(国)の戦いが始まるのだ。人も猿も負傷を覚悟で戦う、これが戦争だ。
それは”物”がほしい、ただそれだけの戦いである。その、ただそれだけに、大勢の動物(人)が亡くなって行く。自然界の動物たちはそれで成り立つが、人はそうはいかない。
何百年経っても、その”物”取りは無くならない。縄張りの中のリーダーは群れを率いて食と秩序の確保と、統制を常に気を配りながら見守る責任がある。だが、少しでもその指導力、統制力の欠如が欠ければ、それを見ている次のリーダー格が攻撃に差し掛かるのだ。そして、リーダーが変わると群れの秩序も変わり、良くも悪くも、それら永遠と繰り返し続ける。
地球上の動物は過去も現在も、縄張りを守る習性は変わらない。いや、変わらないだろう。世界は一つと言う言葉は人類の目標だが、その繰り返しを続けている限り目標は遠い。
戦争は始まりと終わりが有るが、そもそも最初から始まりが無ければ、終わりなど存在しない。


2022年2月06日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

東南海地震

 東日本大震災は死者18,000人超、経済損失額20兆円超の大災害である。自然災害での被害では世界に稀に見ない。日本は地震大国で、過去に何度も経験している。それと活火山大国でもあり、常に自然災害と向き合っている。東日本の地震は、太平洋プレートと北米プレートの重りで、そのひずみの跳ね上がりで地震が発生するらしい。しかし、メカニズムは解っていても、あと何年以内に東北地方を中心とした大地震が起きうる。と、予測発表していない。つまり、東日本大震災は予想していない想定外の地震だった。
今回は、東日本大震災ではなく東南海地震に付いてだ。この地震は過去のデータを参考に、約100〜150年周期に発生し、後何年後に地震発生確率何%と、国、専門学者等が定期的にメディア等に公表している。つまり、東南海地震は地震発生の予測想定内だ。
太平洋に面した関東付近から九州宮崎付近迄の被害想定(死者・インフラ・倒壊数・経済損失等)の予測に伴い、その地域の自治体は災害に備え防災に対する認識を住民等に意識喚起している。

しかし、災害に対して万全な対策を取っても、いつ地震が来るか解らない上、発生時人は様々な行動をしている。その状況にそった少しでも被害を軽減する対策しか取れない。更に、地震観測技術の通報システムは、現在、地震発生後のアラートまたは報道等で国民に注意喚起を知らせている。つまり事後処理である。
事前処理で、明日迄に、大きな地震が来ます。と報道されれば、被害は大幅に軽減されるが、しかし今現在その技術ない、地震は予測ができても発生する確定はできない。
例えば、防災の観点から言えば、この地域は近い将来大きな地震が来るので引っ越しなさい、とは言えない。だから、防災準備をしっかりして生活するしか無いのが現実である。

日本は常に微動地震が発生している。東日本大震災の2011年は年間1万回以上、2016年の熊本地震は6,000回以上と、年平均2,000回を大きく上回っている。この様に地震が全国で多発する年は要注意だ。因みに去年2021年は2,400回超で徐々に上昇傾向にある。
地震大国と背中合わせで生活する日本、火山に於いても1707年の宝永地震では、その49日後、富士山が大爆発している。もし、今後南海トラフ大地震と富士山噴火がセットになった場合、日本経済のみならず、日本国自体が危ぶまれる恐れがある。その様に自然に対するリスクは、この国の避けられない宿命ではあるが、私たちが最低限出来る防災認識と行動、備えをしっかり心得ていれば、最小限の被害ですむ。
地震・台風・津波の自然災害大国日本、常に、一か八かの災害に隣り合わせでいるのだ。


2022年2月14日(ももやん)

事実の証明

 無実者を有罪と認定するいわゆる冤罪である。例えば警察の取り調べ中に自白(犯行を認める)を供述し、その後裁判で無罪を主張する、または最初から無実を供述するが裁判で有罪と認定されるパターンが主だ。それら有罪の根拠は、被告人が犯行を否定しても、指紋・足紋・毛髪・唾液・体液等の物的証拠、状況証拠、また供述の信憑性で確定される。
その昔は科学警察研究所、科学捜査研究所でDNA技術が無い頃、犯人特定に血液型が主流で犯人を特定しが、それには曖昧さが有った。その後、DNA鑑定による進歩で犯人を正確に特定でき、それは容易になった。いずれにしろ現行犯逮捕で無い限り有罪を覆すには大変難しい。
また、痴漢行為の被疑者が無罪を主張する例は、特に不特定多数いる中での行為を、被害者の供述のみでほぼ有罪が確定する。この場合、被害者自身がこの人だと主張して被害者が被疑者を特定してしまう事もあり得る。

今回の話は、事実の証明である。例を取ると、ポリグラフ検査(嘘発見器)は犯罪に関わった犯人しか知らない事実を調べるもので、それを根拠に100%有罪を立証する事ではない。
被疑者とされる供述が無罪と主張して、裁判では推定有罪、推定無罪で結審する。本人の自白(供述調書)と現場検証の一致または矛盾点なしと判断される場合以外は、本人の自白しかない。中には、無実なのに犯罪行為に加担したと主張する事もあるが結局矛盾がでる。いずれも人の脳は否定も肯定も自由に喋る特殊動物であり、本人も他の人に対してもコントロールできるのだ。
有罪の罪で服役した人物が無罪放免となり、本人が喜ぶ場面が有るとしても、本人しか真実は解らない。そして誰も事実は知り得ない。

そこで、医療機器でよく脳を診断する機器があるが、それは波長を見てあらゆる結果を出す。もし、人が考えている思考を医療技術かAI等で知り得たらどうなるのだろうか?例えば企業の面接試験で採用側の質問で”貴方はどうして当社を選んだのですか?”との質問で、その面接者が答弁する前に、それらの技術で会社が人の脳の思考を把握したらどうなるのだろうか。もし、”特に理由もなくこの会社に応募した”と、読み取った瞬間に不採用になる可能性も出て、面接者本人が言葉で喋っていないにも関わらず結果が出てしまうのだ。
もっと重要な例は、刑事事件の容疑者取り調べに於いて、自白しなくても事実を調べられる。嘘発見器より確実な証拠になり、冤罪、有罪事件は完全に解決する。
このように人の脳が何を考えているのかを100%解析されたら先の例以外どの様な事が起きるのだろうか?

例えば各国首脳の外交会議(駆け引き)、商談、機密保持、犯罪、守秘義務、駆け引き、等々あらゆる分野に於いて支障をきたし、秩序、経済が成り立たなくなる恐れが生じる可能性があり、嘘も方便が通用しなくなる。
では果してその様な技術は可能なのか?NIKKEISTYLEの記事で、『脳の中の情報を読み出す技術のことを「デコーディング」と呼んでいます。デコーディング技術の進歩は目覚ましく、睡眠中にどのような夢を見ているのかさえ分かります。
また脳の中の情報を読み取りながら、外部環境から何らかの刺激を与えて、感じていることや記憶していることを好ましい方向に導く研究にも取り組んでいる。』
と説明されている。
技術の進歩は目覚ましく飛躍し、将来その技術が更に進み人の脳をコントロールする時代が来た場合でも、事実の証明は良くも悪くも注意深く見守る必要がある。


2022年2月24日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

領土の連鎖

 戦争の原因は領土、資源、宗教、民族、政治で、その地域に資源があるから領土を取りたい、宗教があるから民族同士が争う、政治判断が戦争へと導く。つまり何れかが絡むと紛争から戦争に至っていて、何年経ってもそれらが繰り返している。また、社会主義と民主主義は相変わらず未だかって真の仲良しになっていない。
領土を考えるならば、戦争で他国の領土を得た国は、その後領土を返還しても、ただ返還するのではなく、周辺地域の抑止力と利権は維持する。その反面、一度手に入れた領土は絶対に手放さないばかりか、領土拡大を模索する場合もある。それら全てが国家利権の為である。
世界は一つだったら何も国境は必要ないが、先の五つの要素があって国境は存在する。それらの国でも大国に植民地化され、その後、植民地化した大国が勝手な都合で国境線を引き、国を分ける行為も紛争または戦争の原因となっている。また、紛争当事国(内戦)と関係ない国が肩代わりする事も事態をエスカレートして行く。
平和は全世界共通認識である事は間違いないし、紛争・戦争は誰も求めてはいないが、それらを解決できない場合、結局、武器で戦う人類は何百年前と何も変わらない。

日本における北方領土の歴史を辿って見よう。

1855年(安政元年)日露和親条約 歯舞・色丹・国後・択捉島及び樺太(サハリン)は国境を定めず。
1875年(明治8年)樺太・千島交換条約 樺太(サハリン)を放棄ソ連領に千島列島(全島)を日本領とした。
1905年(明治38年)ポーツマス条約 樺太(サハリン)を北緯50度以南日本に割譲(分ける)。
1925年(大正14年)日ソがポーツマス条約同意。
1941年(昭和16年)日ソが領土保全・不可侵条約を締結。
1945年(昭和20年)ヤルタ協定に於いて南樺太及び千島列島のソ連帰属を表明、ヤルタ協定に基づいてソ連は日本に対し不可侵条約を破棄し宣戦布告、北方4島を占領。
1951年(昭和26年)サンフランシスコ平和条約で日本は千島諸島、南樺太(サハリン)を放棄するが、歯舞・色丹・国後・択捉島は含まないと解釈する。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言で国交回復、歯舞・色丹の返還の約束。(日本国内西側諸国の軍隊撤収を条件を要求)。
以上の様に170年近くになっても何も解決していない。

サンフランシスコ平和条約でソ連は条約に著名していない。日米安全保障条約により日本国内のアメリカ軍の駐留が常駐化されたが、ソ連の本音は西側アメリカ軍を排除し東側諸国の同盟を取り入れたかったのだろう。ポツダム宣言に於いて日本は8月14日に無条件降伏したが、東・西諸国の両講和条約に締結していれば、無条件降伏後もソ連は千島列島(全島)を占領しなかったかも知れない。
またロシア・韓国・中国は、北方領土、竹島、尖閣諸島の領土問題はサンフランシスコ平和条約に基づき、その条項文を三国は拡大解釈しており、それに対し日本は、戦後の日本領域はそれ以外を放棄すると主張している。つまり、条項の解釈の相違が原因である。
領土は土地、原油、鉱物、天然ガス、穀物、水産、その他の資源全てが絡む主権国家の利益の問題で、一つ間違えた政治判断すると紛争、戦争をもたらすのだ。


2022年3月8日(ももやん)

無駄な努力

無駄な努力とは何だろう?目標に向け努力しても結果が出ない無駄な事なのだろうか?
努力とは目標を掲げ、そこに到達するために邁進することであると言われるが、そこに無駄の言葉を入れると、目標を達成できない努力は、しなくても良いと解釈できるのだ。次に無駄とは何だろう?辞書では、役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。と記されているが、”役に立たないこと”つまり、役に立たない事は、それ以上努力する必要がないと理解するが、無駄を先に結論しては全ての物事が先に進まない。

無駄を承知で努力する事は、決して無駄ではない。その無駄の積み重ねで何かの理に適う事があるかも知れない。例えば、努力しなくても直ぐ結果を出す人と、努力しても結果がでない人を比較した場合、前者は評価され後者は悪評されるのが一般的だが、後者は一概に悪評とは限らない。その理由は、結果がでる、出ないに限らず直前まで努力している事だ。
そこで、人の無駄の行動パターンを考えると、1.”無駄な事は最初から行動しない人”、2.”無駄だと分かっているが行動している人”、3.”無駄そのものが分からなく行動する人”と分けた場合、2は研究、3は閃き、1は肯定となる。つまり、無駄を肯定しては研究と閃きは生まれない。そうなると、無駄な努力、無理な努力の言葉は、この世には存在しないのだ。例えば会社の上司が部下に”何故無駄な事をする。最初からこうやればいい、時間の無駄だ”と叱責した場合、それが本当に無駄な時間だろうか?部下の行動は、それもやはり結果をだす迄の努力をしているのだ。思考を与える時間は決して無駄ではない。

そこで、数字の例で努力してみよう。
無理数とは有理数ではない分母・分子で整数である分数で表せない実数で、つまり循環しない無限小数が無理数の事であるが、例えば、次の計算を試して下さい。
99999999×sin(180÷99999999)=この計算式は無理数です。さらに、9の数字を無限に増やすと無限無理数で解が恐らくありませんが、挑戦すれば循環小数が見つかるかも知れない。それが無駄ではない努力だと思う。
努力とは”結果を先に知るより、努力で先を知り得る”事である。


2022年3月20日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材

春の小さな主役

 凍てつく冬の終わりが近づき、落葉樹たちも今かと緑の葉が待ち構えている。また、地表に於いては春の鮮やかな花が元気よく咲き乱れ、今の季節は花の万博の始まりだ。
そして、3月中旬から4月にかけては、全国的に日本の代表である桜が咲き、春の季節を象徴して行くのと同時に、新成人、新社会人、新入生と、それらの人々を歓迎しているかのように醸し出している。
初春の雪解けが過ぎゆき、太陽の光を待ちに待っていた野原の花の新芽たちも、我先にと芽生え合戦だ。その野原や広い公園を散策していると、季節に合わせた花や植栽された花と共に、野生の小さな花たちが咲き乱れ、互いのコラボレーションが散策する人の心を豊かにしてくれる。

その小さな花たちだが、よく観察すると多種多様な花が陽に向き合っている。青色のオオイヌノフグリ・桃色のヒメオドリコソウ・青色のワスレナグサ・白色のハコベ・桃色のホトケノザ・薄紫のカキドオシ・黄色のタンポポ等、まだまだ沢山種類があるが、各々の花は1センチ以下で、桜など上を向いて歩いていると見逃したり、踏み潰したりして、とても可哀そうな花である。また、これらの花は3月から4月にかけて、野原に咲き乱れる花合戦万博のように美しい。体を地面にうつ伏せになり、その花の丈目線で観てみると、それはそれは絶妙の視野が広がる。虫眼鏡やズームレンズカメラで映し出す花は、とても神秘的なので是非トライして観て下さい。

よくメディア等でその季節の花の便りを報道しているが、それらの有名花の花たちの陰で支えている小さな花たちは、負けずにと頑張って咲いているので、野原や公園を散策する際は、是非観察するのも、この季節の醍醐味でもある。また、落日には日中の鮮やかな演出が疲れたのか、緩やかに花を縮めて眠りに入り、朝の陽の明かりで目を覚ます花も、長生きする努力かも知れない。

右の写真はオオイヌノフグリで漢字で書くと大犬の陰嚢と書かれ、その名前の由来はオオイヌノフグリの実は犬の睾丸に似ている事だそうで、余りにも変わった名前である。日本固有種の近縁種クワガタソウに似ているが、この花はヨーロッパ原産である。


2022年4月1日(ももやん)

動物と共存


 人は動物と仲が良い。爬虫類・両生類・哺乳類・鳥類・魚類・・・・・Etcと動物、生物の分類は多くあるが、特に哺乳類、鳥類、魚類は大変人に人気だ。その中で群を抜くのは哺乳類で、更に動物種別に分けると、犬、猫が圧倒的に多い。2020年(令和2年)全国犬猫飼育実態調査によると、国内世帯数の20%を超えている。それ程までに、人は動物が好きなのである。例えば、ヒト科のゴリラはオランウータンを飼わないし、オランウータンもチンパンジーを飼わない。ましてや犬は猫を飼わないし、その逆も同じ事だ。

ここまで書くと、何を訳の解らない事を言っているのかと、お叱りを受けるかも知れないが、私に問っては疑問が残る。
人は何故、動物を飼うのかであり、他の動物は、ほかの動物を飼わない?それが疑問なる。
人は知能と、知識、そして哺乳類を制圧する能力があり、だから動物を飼える。しかし他の哺乳類は、それらが無いので飼えないのか?
地球上の生物で現在の所、最強な哺乳類は人である。他の哺乳類は人より力が勝っても、人は知能で対応する。現在の所、人以外の哺乳類は、人の知能と同等、若しくは人以上は存在しない。しかし、人と同等の知能をもった哺乳類が現れたらどうなるのか?

1968年のアメリカ映画で、”猿の惑星”と言う映画をご存じだろうか、4人の宇宙飛行士が半年の宇宙飛行し、在る惑星にトラブルで不時着した。そこは、猿たちが人間を征服している惑星であった。その惑星は船内時間と宇宙時間の時間理論で、700年後の地球であったが、現在の猿の文明は、過去の人類文明の遺産である事が、ラストシーンで解る映画だ。
この映画は、まさしく時間が経つに連れて、猿の知識・能力が向上して、人を飼っている。映画で登場するリーダーは、過去の人間が征服していたのを恐れた。だから人の刈りを続け、今の猿の文明を維持したかったのである。

人も原始時代から徐々に知識・能力を身に付け現在に至るが、他の動物も、もしかしたら人と同じ経過を辿るかも知れない。700年経ったら映画の様にならないかも知れないが、それに、近くなるかも知れない。
人の文明を維持する為には、人と他の動物と共に、これから先、未来も仲良く共存して行かなければ、人は負の遺産になる。
ちなみに著者は、魚(熱帯魚)、鳥(セキスイインコ)、ウサギ、リス、犬(五代目)と飼育経験がありますが、現在は魚と犬。


2022年4月19日(ももやん) photo→花の写真素材屋 素材



 世界の人の目(眼球)の形は同じでも瞳の色は其々違う。その色を構成するのはメラニン色素(紫外線を吸収する色素)であり、アジア系は主にブラウン(濃褐色)、北米・北欧・ヨーロッパなどはヘーゼル(淡褐色)、その他グレー・ブルーはロシアや北ヨーロッパなどが該当する。
また、瞳にメラニン色素が少ない人程、太陽の眩しさを感じている。今回は目の色素の話ではなく、目(眼球)で男女(性別)の判断が出来るのか?と言う話しです。

例えば視覚に於いて色の違いや動体視力の男女の差は、脳の神経やホルモンによっての違いであるらしい。しかし、それらは男女の物の見え方であるが、人の目を見た時、性別が解ったらどうなるだろう?。もし、明確に性別確率判定100%のマシーンまたは人が人の視覚判定ができたら、どの様な影響があると考えた場合、メリットとして医学的判定や社会分野、司法に於いて大きく貢献する。デメリットとしては特にないが、社会的性別(ジェンダー)は中立的な概念であり、それは本来の主旨に該当しない。
いずれにしても人の目を見ただけで性別が判断できれば、それは一つの医学の成果でもある。

話を元に戻し、本題の主旨は何故、人の目(眼球)で性別の判断が出来ないのかと考察した場合、水晶体や角膜、虹彩、網膜血管等で目の識別判定は可能だが、それでも性別は見分けられない。もし、それが可能ならノーベル医学生理学賞レベルなのか?。
人の目の細胞は単一細胞ではなく多岐にわたるらしく、@PS細胞やES細胞を屈指しても人の眼球を作るのは容易ではないと言う。まして、性別眼球の再現と言う課題は論外な研究かも知れないが、不可能と言う文字がないとすれば、何れの研究者が将来発見してくれるかも知れない。それは、眼球の作成が優先か性別の発見研究が先かはどちらでも構わない。一蓮托生であればそれでよしである。

単純な発想は複雑な結果を齎すのか、それとも単純な発想は未来を導く一歩なのか。


2022年4月26日(ももやん)

文字の方向

 本、雑誌、漫画、新聞等を読むとき、何故、開く方向と文字の縦書き若しくは横書きが各々によって違うのかを考えて見た。
まず、一般的に右綴じの雑誌または本などは縦書きが基本で、左綴じは横書きが基本らしい。では、なぜそうなるのかと巻物の書状で例にあげれば、右巻きは左手で巻物を開き、文字は右から左へと縦書きで書かれている。その巻物を筆で書く場合、筆を立てて右から左へと書けば手は汚れないが、手を紙に置いて書く場合は汚れる。しかしその逆の左巻きの場合、左から右方向へ筆で書くので、筆を立てても紙に手を置いて書いても墨に汚れない。要するに汚れるか汚れないかは別として、書き方次第はどちらでも構わないし、読む方向も、それぞれ特に違和感もなく自然である。

では、文字の読む方向と文字の縦組み、横組み等を具体的に本で考えてみよう。
書籍の読む方向は、基本的に左綴じの文字は横方向左から右、右綴じの文字は、縦方向右から左方向へ流れて行くのが一般的だ。その一般的規則を変えた場合、左綴じで縦書き文字右方向、右綴じで横書き文字右方向でも構わない。要は、右綴じ横書き縦書き、左綴じ横書き縦書きでも特に違和感がないが、一般的理由を考えるとしたら読む流れとして、先に進む方向が自然であるという事なのか。
次に英文の場合は横文字なので、書籍の左右の綴りはどちらでも良いし、文字は左から右への流れは一律で、違和感はないし自然である。もし、右から左方向、または縦書きだと非常に読みずらい上、特に縦書きは筆記体としては成り立たない。
今更ですが、改めて右綴じ・左綴じとは、本の表紙を正面から見た時、左右どちらかに綴じている事を指す。書籍によっては、小説・漫画等は右綴じ縦書き、専門書に於いては左綴じ横書きが一般的で、雑誌では左右綴じ縦横書きと、なんとも様々である。

そこで、新聞を例に上げてみよう。新聞を読むとき1面はTOP記事で右開きでページが進む。右綴じの流れだ。見出しは横書き縦書きでも、本文は縦書きである。勿論、右から左方向へと文字が進む。それらは、規則による購読者の感覚の慣れであり、読みやすさとは違う。別に横書きでも自然である。つまり日本語の文字は縦、横、左右方向どれも対応できる事である。それゆえに縦横綴じの文字配列は、一般的基準にこだわる必要は無いかも知れない。
主旨が少し外れるけど、その新聞を読むとき、1面の記事を読み2ページへと進む場合と、いきなり社会面記事を読む事もあれば、好きなコンテンツを先に読むなど様々である。これも文字方向の問題ではないが、その人の読み方であり規則はない。
ここまで書くと、一定の書式規則がないと、縦横右左とごちゃ混ぜになり、返って混乱が生じると指摘されるかも知れないが、既成概念にとらわれず、それらを多角的に思考するのも一理あると言う事です。

その昔は、右から左へと文字を書いていたが、西洋文字の流れなのか、いつの間にか逆になった。今やIT時代に於いて、ネットでは電子書籍を購読する場合、小説などは縦書きであるが、それ以外の電子文字のテキスト表記はF型
※注1、左から右へと記述されている。それらもこの先の流れに恐らく定着していくのだろう。しかし、それでも日本では、まだまだ縦書きが主流だ。
最後に、本の背表紙以外にタイトルが書かれていない本は、右綴じか左綴じかは開けて見ないと分かりませんが、貴方は左右どちらの側から最初に開きますか?
※注1 右綴じ縦書きは縦組みN型、左綴じ横書きは横組みZ型、WEB上は横組みF型、N・Z・Fは文字の書き流れで、その方向に視線を誘導している。

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